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建前と本音
「あ!あれも食べたい!」とユリアが指さしたお店からは甘いパンの良い匂いが溢れていた。
パン屋の出店みたいで、裏のパン屋からせっせと運んで並べられるパンは焼き立てみたいだ。
ユリアに手を引かれて店に並ぶと、あたしに気付いた店番の女性が顔をまじまじと見て声をかけてきた。
「もしかして…あんた《ルカ》?」
なんと、声をかけてきたのは数年前にあたしがロンメルのお屋敷に引き取られるきっかけを作ったパン屋のソフィアだった…
嫌な過去を思い出して固まってしまったあたしに、彼女は気まずそうに苦く笑った。
「だよね…急に声かけてごめん。ビックリさせたよね?
あれからずっと会ってなかったから…元気してた?」
「ライナの知り合い?」
ユリアが不思議そうに首をかしげていたが、どういう関わりかを言うのはなんかちょっと気が引けた。
それは彼女も同じだったようだ。微妙な沈黙があたしたちの間に流れた。
「ソフィア、何してんだ?ちゃんと店番してくれ」と彼女を呼ぶ声がして、パン屋のおじさんがやって来てあたしの顔を覗き込んだ。
すぐには分からなかったみたいだが、パン屋のおじさんもあたしの事を覚えていたみたいだ。視線を合わせるように屈んで、あたしの古い名前を口にした。
「久しぶりだなぁ、《ルカ》じゃないか?良く来てくれたなぁ、元気だったかい?」
「う、うん…」
「あの時はソフィアが悪いことをしたのに許してくれてありがとうな。お陰でうちはまだパン屋続けられてるんだ。髪も伸びたんだな、良かった良かった」
おじさんの目は潤ませながら喜んでくれた。気にしてくれていたんだ、と思うと嬉しいがちょっと申し訳無さも滲む。
「もう、昔の話だから…あの、パン買っていって良い?」
「もちろんだよ。友達も一緒かい?好きなの持っていきな。お代はいらないよ」とおじさんは気前よく言ってくれたがそれも悪い気がする。
遠慮しているとおじさんは気前よくパンを紙袋に突っ込んであたしに渡した。
「《ルカ》が来てくれたらお礼するって前から言ってたんだよ。あの時私もどうかしてたんだ…ずっと待ってたから、今日会えて良かった。あの時は本当にごめんね」
あたしの記憶の中のソフィアは少し怖い印象だったが、今の彼女は別人みたいになっていた。
憑き物の落ちたような彼女は朗らかで優しい女性だった。元々、取り巻きも多く、いつも賑やかな中心のような場所にいたから、彼女自身は悪い娘じゃなかったんだろう。
「もう謝らなくていいから。髪も伸びたし、元通りだから。パンありがとう」
「また来て。こんな時になんだけど、あたし結婚して去年子供も産まれたんだ、男の子。今度来た時に紹介するね」とソフィアは笑顔で教えてくれた。
それだけ時間が過ぎたんだ、と改めて思った。
パン屋の出店を後にして、ユリアたちと植え込みの近くの縁石に腰を下ろした。
「あのお姉さん知り合いだった?」
「うん。まぁ、知り合い。でもこんなに話したのは初めてだよ」
髪を切られた話はしなかった。今は楽しい時間だし、そんな話を掘り出して話すのも違うと思ったから、まだ何か言いたそうなユリアにパンを渡して口を塞いだ。
案の定、彼女は美味しいパンに免じてそれ以上の追求はしなかった。
「ハルツハイム様もどうぞ」と、立ったままのハルツハイム様にパンを渡そうとしたが彼は「自分は大丈夫です」と断った。
ハルツハイム様は通りの視線から私たちを隠しているようだった。
「美味しいから食べたら良いのに…」とユリアは彼の気持ちが分かってないみたいだ。
美味しいものを食べてるユリアは無防備で幸せそうな可愛い顔をしている。
そりゃ、こんなの心配になっちゃうよね…だって、ユリア可愛いもん。
ユリアを見下ろしているハルツハイム様は無表情を作ろうと努力しているが、目元も口元も柔らかい雰囲気が滲んでいる。
ユリアのことが可愛くてたまらないんだろうな…あたしちょっと邪魔かもしれない…
なんか二人の関係がすごく羨ましく思えた。
あたしも、こうなりたいなって…少しだけ胸の中がモヤモヤしたのはあたしの心が弱いからだ…
カイは応えてくれないのに、心の中ではまだ期待してる…
ほんとに馬鹿だな、あたし…
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