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✩.*˚
「なんかあったか?」
何かに気付いてマイロが足を止めた。その視線は人の多い中央の方に注がれている。
「レスリングが盛り上がってるだけだろ?いつものことじゃねぇか?」とサイラスが返したが、少し様子は違ったようだ。
腕に着けた《燕》の印を目指して伝言役が私たちのところに来て招集を伝えた。
「団長から、優先だってよ」
「団長から?」と伝言を持って来たラースという団員に問い返すと、彼は群衆の方を指さした。
「領主様のところの侍女のお嬢ちゃんがバカに連れ込まれてヤラれそうになったんだってよ。ご領主様もキレてんだと…
あの人混みの中からその犯人捕まえろってさ」
「あの中からですか?」と話を聞いていたアルバが嫌そうな顔で問い返した。気持ちは分かる。
あのひしめき合った人の中から一人を探すなんて藁束に落とした針を探すようなものだ…
「目印とか人相とかは?」
「左腕の手首の辺りにお嬢ちゃんが噛んだ痕があるってさ。顔とか服装とかは知らね」と無責任な言葉を残して、伝言役は次に伝える相手を探して何処かへと立ち去った。
「…マジでぇ…」というサイラスの呟きがその場の皆の意見を代弁していた。
「どうする、坊っちゃん?」大きなため息を吐いたマイロが私に指示を求めたが、私たちがすることは決まっている。
「やるだけやろう」犯人が見つかるとは思えないが、探されていると分かれば同じことはしないはずだ。限りなく無駄に近い仕事だが指示された以上無視できない。
文句を言うかと思っていたが、サイラスは「しゃーないな…」とボヤきながら私の指示を受け入れ、マイロも不機嫌そうな顔をしていたが、文句を言わずに着いてきてくれた。
仕事に取り掛かろうとした時に、近づいてくる一団に気付いて足を止めた。
「道をあけて下さい。通ります」と言いながら人混みに道を作る蒼い髪の若い騎士には見覚えがある。あの子熊の死骸を欲しがった若者だ。
私に気付いた青年は懐っこい笑みを浮かべて会釈をして、そのまま道を作る仕事に戻った。彼が通り過ぎてすぐに別の声が私を呼んだ。
「ルドルフ殿ではございませんか?」という呼び掛けに視線を向けると、見覚えのある騎士の姿があった。
確か、クラウゼヴィッツ伯爵家の…彼がここにいるということは…
「やはり、ルドルフ殿でしたか。
奥様、先日街道で助けてくださった恩人のルドルフ殿です」と、彼は後ろに庇っていた奥様に声をかけた。
彼の後ろから現れた女性たちは困惑の表情を私に向けていた。
当然といえば当然だろう…
こんな所で会うとは思っていなかったのはお互い様だ…
今の私は彼女らの知っている王子だった頃の自分ではない。みすぼらしい姿の傭兵だ。
ただ、あの頃と違っているのはみすぼらしくなった姿だけではない。
変わったのだと、あの頃とは別人なのだと彼女らにも知ってほしかった。
背筋を正してつま先にまで神経を集中させた。王子だった頃だってこんなに集中した事はない。私にとって人生で一番綺麗な行儀を彼女に捧げた。
「クラウゼヴィッツ伯爵夫人へご挨拶申し上げます。その後のお加減はいかがでしょうか?」
「え…えぇ…もう大丈夫です」と答える元婚約者の表情は戸惑いの色が濃く、彼女らにとって私が迷惑だと言うのは明らかだ。これ以上の会話は彼女らに取って不愉快だろう。
「左様ですか。お引き止めして申し訳ございません。どうぞご健勝で」と深々と頭を下げた。
私が顔を上げる頃にはもう彼女らはいなくなっているものだと思っていた。
「ルドルフ様。お顔をあげてくださいまし」などと、声がかかるとは思っていなかった。
「お姉様」と妹が私と関わるのを諌める声がしたが、彼女は私の覚悟に応えてくれた。
「本当に…本当にお変わりになられたのですね…」と呟く彼女の声には少し残念な感情が滲んでいた。分厚い眼鏡の向こうの目は見えないが、その視線はしっかり変わった私を見てくれていた。
いや、違うな…私がまっすぐに彼女を見ていなかったのだ…
親が決めた婚約者だから、ワーグナーの娘だから、口うるさいから、と…すべて私のために言ってくれていたのに、それと向き合わなかったのは私の方だ。
「過去の私は捨てた。彼はもう死んだと思って忘れて欲しい」
「《彼》には散々振り回されて泣かされましたわ。忘れて欲しいなんて随分都合がよろしいのではなくて?」と言う彼女は手厳しい。でもその口元に淡く浮かぶ笑顔は母親のような優しさが滲んでいた。
「《彼》へ伝える言葉はあるだろうか?」
「えぇ、そうですね。言いたい事は沢山ありましたが、ありすぎて忘れてしまいましたわ。それに、別人に文句を言った所でお門違いですわ」
随分あっさりした返事を返して、彼女は身につけていたブローチを外すと私に歩み寄った。
「助けていただいたお礼がまだでしたわ。
これは私からの気持ちです。勇敢なルドルフ様、お受け取り下さい」
彼女はそう言って武勲を称える儀式のように私の左胸にブローチを飾った。
それは人生で初めて彼女に誉められ、感謝された証だ。
「ありがとう、マリアンネ…幸せに」心から出た言葉に彼女も目を細めて嬉しそうに笑ってくれた。
「えぇ。ルドルフ様もどうぞお元気で…良い便りをお待ちしておりますわ」
本当はもっと言いたいことがあっただろうが、彼女は立派な淑女だ。彼女は精錬された淑女のお辞儀を披露して私から離れて行った。
私の悪い過去がまた一つ精算されたようだ。人の隙間を縫って届いた秋風が、私を褒めるように撫でて行った。
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