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思い出のあの場所で
ある晴れた春の日。
眩い日差しに目を閉じながら、弓波弦真は清水東高校の門をくぐった。
清水東高校は創立百年近い伝統校で、清水インター近くに位置している。
県内でもトップクラスの進学校で、課題が多いことで有名な高校だ。
東高校には、理数科・普通科二つの科があり、弦真は普通科を受験した。
先月中学校の卒業式を終え、兼ねてから目指していた清水東高校にみごと合格し、今に至っている。
弦真のクラスは12HR。
二階の階段上がって左手にある教室だ。
弦真は教室に入り、自分の席へ移動する。
彼の頭文字は『ゆ』なので、出席番号は大抵後ろ。
今回も予想通り後ろから二番目の番号だった。
席に着いたところで、何をするでもなく頬杖をつきながら、弦真は窓の外を眺めていた。
「えーと、今日から君達の担任になる加藤です。一年間よろしく」
弦真の担任の先生は、数学の先生で若い女性だった。
きめ細かい長い黒髪が特徴的で、一目で美人だと思った。歳はそんなにとっていない。
少し彼女の話を聞いたところで、講堂へと移動し、入学式を行なった後、午前中のうちに解散となった。
家に帰ると、弦真は日課になっているピアノの練習を行うため、家の地下にある演奏室へ向かう。
演奏するのは、ドビュッシー。
『月の光』。
この曲は、母の得意な曲でもあり、彼女があの場で弾いていた曲でもある。
弦真の母は、元ヴァイオリニストで、弦真がピアノを始めたいと言った時には、喜びながらこの曲を教えてくれたのだった。
弦真は、母からこの曲を教えてもらった時に、その偶然にとても驚いたのだった。
もともと母の練習部屋だった防音の部屋を弦真が借り受け、そこに父が好意で買ってくれたグランドピアノが設置された。
弦真は自分のために色々と尽くしてくれた両親に感謝しながら、日々練習を重ねていた。
階段を降りて、弦真は演奏室の扉を開いた。
この部屋は独特の匂いがする、と弦真は思う。
年代物の楽譜や、母のヴァイオリンが置いてあるこの部屋からは、母の音楽に対する情熱と、長年積み重ねてきた努力が入り混じったように感じるこの匂いを、弦真は気に入っていた。
ここで演奏していると、母の熱い思いが伝わってくるようで、演奏が捗っているように感じ、思いっきり自分の演奏ができる気がするのだ。
そのことを母に言うと、「私に似たのかしらね、私も亡き母を感じたことがあるわ」と笑われたのだが父からは、「天才気質なんじゃないのか」と笑いながらそう言われた。
弦真は、母に似たのなら嬉しいことだ、と感じていた。
あの彼女の演奏を越えるためには、努力だけでは補えないものがあると弦真は感じていた。彼女の演奏には、努力をねじ伏せて立つ才能が感じられたのだった。
自分が持っている力が、母から受け継いだ『才能』なのだとすれば、それに越したことはない。
弦真はその才能かもしれない何かを活かすためにも、努力を重ねようと意気込んでいた。
ファとラ♭から始まる最初の和音を奏でると、弦真の指が鍵盤の上を流れるようにはしりだした。
八分の九拍子のリズムに乗りながら、弦真の指は鍵盤の上を流れ続ける。
和音の響きを意識して演奏しているからか、いつもよりも音の響きがいい。
弦真は直感的にそう感じていた。
弦真の心の中に少しずつ、本当に少しずつだが、彼女の演奏に近づいているという実感が湧いてくる。
ただ、現実問題そんなに甘くないとも感じていた。
彼女が何年ピアノを弾いているのかはわからないが、弦真はピアノを弾き始めてまだたったの一年だ。
もっと練習を重ねないと、彼女に追いつくこと、ひいては背中を追いかけることすらままならないであろう。
弦真はそんな思いを左手の和音を力強く奏でることで、誰でもない自分自身に伝えていく。
そのまま曲は山場を抜け、終盤のピアニッシモの小節を優しく撫でるように奏でる。
音の余韻を残しながら、弦真は指を鍵盤からそっと持ち上げる。
弦真は一度曲を通して今日の練習は終えることにした。
弦真はそっと、鍵盤の蓋を閉じた。
閉じられたピアノに、ふと彼女の笑顔が見えた気がした。
そうだ。あのアップライトピアノで、一度ピアノを弾いてみよう。あの場所で彼女と同じように演奏することで。何か感じるものがあるかもしれない。
あそこのピアノで弾くために、この一年間ずっと練習してきたのだから。
それにもしかしたら、彼女もそこに来ているかもしれない。
もし彼女が来ていたら自分の演奏を聞いてもらおう。そして、この前できなかった話をしよう。
そう思い、弦真は地下室を後にした。
弾き手を失ったグランドピアノは、静かに眠っているようにも見えた。
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