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憮然とする同居人に苦笑い、変化球を投げる。
「覚えてるか、初めて会った時のこと。二階から人間失格が落ちてきた」
高校時代、図書館裏で不良数人に絡まれていた時。
突如として二階の窓から投げ落とされた太宰治の『人間失格』が、不良のリーダー格の顔面を直撃したのだ。
俺の指の間にシャーペンを挟んで絞り上げてた不良は、『人間失格』の烙印をおされてギャッと悲鳴を上げたっけ。
「で、そのあとお前が降ってきた」
麻生譲との衝撃の出会いだ。
「んなことあったっけな」
麻生はしれっととぼけるが、こっちは全然忘れてない。
「すげー勢いで食ってかかられて、言い放ったセリフ覚えてるか。或る阿呆の一生か白痴のほうがよかった?って……当時の俺、よくドン引きしなかったと褒めてやる。しかもお前、俺が落としたミステリーの新刊チラ見で犯人と凶器ネタバレしやがるしよ」
思い出したらむかむかしてきた。
「まさか犯人が助手で、凶器が高枝切りバサミとはな」
「そこは覚えてんのかよ!」
ツッコミが冴える。
当時と一言一句変わらないセリフが懐かしさをかきたて、呟く。
「色々あったけど、お互い夢叶ったよな」
あの頃から俺の夢はミステリー作家で、麻生の夢は監察医だった。
なのに今、麻生がせっかく叶えた夢を喜べなくなっているとしたら、それはコイツの心が冷たいからじゃない。
「……今日運ばれてきた遺体」
「ああ」
「学校の屋上から飛び降り自殺した中学生。痣だらけだった」
「いじめか」
「だろうな。遺書の記述とも一致する」
麻生が無表情に言い、電源の切れた真っ暗なテレビ画面を見詰める。
正しくは四角い枠の闇に映り込む自分の顔を。
「昨日は3歳児を解剖した。見た目に異常はなかったが、中は打撲の内出血で酷いもんだ。外傷性ショックが死因」
「虐待?」
「司法解剖に回した」
外見に異常が見当たらないということは、布団などを巻き付けて上から殴る蹴るした可能性がある。想像だけで胸糞悪い。
麻生はそれ以上詳しく語ろうとしない。
監察医の守秘義務に準じるのは勿論だが、見聞きしたものが惨すぎて語りたくないのだ。
「……続けて来ると少しキツいな」
監察医務院には様々な遺体が運ばれてくる。
エアコンがない安アパート、サウナと化した部屋。ともに熱中症が死因とされた老夫婦だが、死亡時刻には3日の開きがあった。
老々介護で認知症の妻を世話していた夫が先に倒れて亡くなり、寝たきりの妻は糞尿にまみれ、それをただ見ているしかなかったらしい。
以前麻生が話してくれた事を思い出し、気持ちが重苦しく塞いでいく。
コイツが冷たいなんてとんでもない。
ホントはひどく不器用で優しいヤツだって、俺が一番よくわかってる。
「……似てたからかな」
誰をさすのかわかったが、傷には触れずにおく。
麻生が口の端を曲げて自嘲し、俺は小さく首を振る。
「やることやったんだろ。偉いよ」
麻生が監察医を志したきっかけは、当時高校生だった従兄弟の飛び降り自殺だ。彼は俺たちが数年後に通うことになる高校の屋上から遺書も残さず飛び、帰らぬ人となった。
後にわかったことだが、従兄弟の死体には沢山の痣があったらしい。
「死因を突き止めた所でどうにもならない。事件性があるってわかったら司法解剖に回される、事件性がなけりゃ監察医務院が処理する、それだけだ」
麻生が膝の上で両手を組み、ぐっと力をこめる。
「事件性って何だ?」
指が白く強張るほど力を入れる。
「ミステリー作家の秋山センセならわかるだろ、教えてくれよ。何が事件でそうじゃないんだ?いじめで全身に痣作って、1カ月前の骨折の跡もある中学生が自殺したら、それは事件じゃないのかよ。自分で死んだら殺されたって言えないのか。内出血の子どもは?」
レンズの奥の目を苦渋に歪め、唾棄する調子で。
「俺にできるのは、手遅れになった理由を突き止めることだけだ」
眼鏡を外して瞼を揉む麻生に寄り添い、続きに耳を澄ます。
「いじめられて死んだヤツも虐待されて殺された子どもも、あんなになる前に本当はずっと叫んでたはずなんだ。気付かなかったって?誰も?嘘だろ。クラスメイトに教師に近所の奴、少しもおかしいと思わなかったのか。面倒ごとに巻き込まれるのが嫌でほっといたのか。俺の所には手遅れになったヤツしか回ってこないんだ、何が起きたかわかったってリセットできない」
「麻生……」
「真実って、本当に大事なのか」
人を救えもしないのに。
麻生は従兄弟の自殺がきっかけで監察医になった。でも今、自分のしている事に意味があるのか悩んでいる。
「どんな酷い目にあったかとか、どんな可哀想なことされたとか。俺の検案でわかった所で、ニュースで少しのあいだ騒がれて世間の同情集めるだけだろ。俺が欲しかった真実には、所詮その程度の価値しかないのか。娯楽のように消費されてく、胸糞悪い真実に意味なんてあるのか」
救いたくても救えない。
救えなかった現実だけが変わらずそこにある。
何度も何度も解剖に立ち会い、何度も何度も死体の無念を聞き、監察医でなければ知らずにいられた辛すぎる真実を知りすぎて。
コイツは優しいから、擦り切れて自分を責める。
俺はソファーの上でちんまり膝を抱え、腐れ縁の親友に声をかける。
「ぶっちゃけ、さ。知らない方が幸せなことって世の中たくさんあんじゃん」
「秋山センセの印税とか」
「うるせえ」
口を尖らせて拗ねりゃ、麻生がほんの少し表情を緩める。
膝を抱く手に力をこめ、断言する。
「知らない方が幸せな事って知らなきゃいい事なのか?手遅れだろうがなんだろうが、間違いは正さなきゃいけねーんだよ。死ぬまで苦しんで死んでからもそっぽ向かれたんじゃ、体ん中で迷子になった声はどこ行くんだ?」
監察医は最後の声を聞く仕事だ。
沈黙を守る麻生の方へ乗り出し、心から語りかける。
「臭くて汚くて危険でも誰かがやんなきゃいけねー事だよ。お前が見付けた真実ってのは、たぶん死体の最後の声だ。生きてる時はどんなに叫んでも聞いてもらえなかった、詰め物されてたのかもしれない、口止めされてたのかもしれない、どんなに叫んで叫んで叫んでも届かなかったその声が、全部終わった今、やっとお前に届いたんだ。確かにどうしようもなく手遅れだけど、悔しくて寂しくて哀しくて苦しくて、全身使って叫んだ事実がなかったことにされるよかずっとマシだろ。ちゃんとここにいたんだって、生きてたんだって、お前がすくいとってやんなきゃただ手遅れなだけで終わっちまうよ」
どれほど酷く惨い最期を迎えたって、監察医務院の手術台に寝かされた彼らの人生が、「手遅れ」の一言で締めくくられていいはずがない。
苦しみは看取られて、報われなきゃいけないんだ。
それでも麻生が動かないのにじれて腰を浮かす。
「ちょっと待ってろ」
カウンターのペン立てから油性サインペンをひったくり、大急ぎで駆け戻る。
「何すんだ」
「黙ってろ」
麻生の右手のひらを掴んで固定、きゅぽんとキャップを外す。
唇をなめて向かい合い、しなやかなてのひらにKから始まる英単語を書き付ける。
『keen、Keep、Kindle』
「さて問題。3Kの意味はわかるか?」
「keen、Keep、Kindle」
「正解。Keepにゃ守りぬくって意味もあるんだぜ」
「知ってる」
これまで何十何百体の死体を開き、迷子の声を導いてきた麻生センセのてのひらを愛おしげに見下ろし、囁く。
「辛い時はめちゃくちゃに泣き叫んだってかまわねえ、その熱を守り抜いて芯に火を点けろ」
「燃え尽きちまったら?」
「俺がいる」
まっすぐに目を覗き込む。
「灰をかき集めて、また火を起こしてやる」
keen、Keep、Kindle。
慟哭を守り抜いて火葬する。
麻生が眩げに目を細め、ゆっくりと手を閉じ、新しく書き換えられた3Kを力強く握り込む。
メスを入れた事で知ってしまった、物言わぬ死体の哀しみや苦しみを自分の中に取り入れ、炎で浄めるように。
「……サンキュ」
監察医は死体の叫びをKeepする仕事。
更新された3Kの合言葉を握り締め、冷たく静かに燃え立った麻生は、すっかりプロフェッショナルの目をしていた。
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