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キビヤック
リビングルームに入ると、ぐでえっと寝そべってテレビを見ている足がソファーの端からはみ出してんのが見えた。俺は速攻、宇賀の前に立ったけど、絶ッ対見られた!ウソだろ。今日、パートじゃねえのかよ、母ちゃん!
「おかえり、想太。早くない?何かあった?」
俺は背中で後ろに隠した宇賀をぐいぐい押す。こんなにちっちゃくてかわいい生き物が見付かったら、取って喰われる!!
「おじゃまします」
俺の背中の後ろから宇賀があいさつした。ソファーの背もたれから、ぶはあってマジで海にもぐってたトドが海面から出て来るように顔を出した。宇賀っ、ダメ!俺の後ろから顔出しちゃ!
「彼女?!げふっ」
「ゲップすんじゃねえよ!空気が汚れる!」
俺は叫んだ。コーラか。コーラなんて飲んでやがんのか、このババア。
「彼女じゃねえよ。男だよ。いつも話してんだろ。こいつが宇賀。部屋で勉強するから絶ッ対!入ってくんなよ」
俺は汚い物を見せないように宇賀の前に立ちはだかったまま背中でぐいぐい押してリビングルームを出る。
「ごめん。今日、パートでいないはずだったんだけど。んだよ。何でいやがんだ、あのトド!」
振り返ると、宇賀は下を向いている。ぷるぷる肩が震えている。
「笑いたければ笑えよ!むしろ笑ってほしい。笑ってくれえええ!」
宇賀が顔を上げ、声を上げて笑う。――初めてこいつの笑顔を見た時。入学式の日、進路ノートとか運ばされた時にいがみ合う俺らを追い抜いて廊下を走り去った鹿尾先生を笑った時。あん時はこんな仲良くなって勉強まで教えてもらうなんて思いもしなかったなあ。俺はしみじみしながら、いっしょに笑う。
宇賀のちっちゃな背中を両手で押して狭い廊下を歩いて俺は自分の部屋のドアを開ける。
「言ったろ。俺の部屋、極狭・汚部屋だって」
俺は宇賀の背中を押して部屋に入る。兄ちゃんの机と俺の机。二段ベッド。そして壁際に積み上げたマンガの山々。部屋ん中、臭くないかなって心配になって、窓、全開にする。あ。
「あそこのタワーマンションあるだろ」
「え」
俺は宇賀を振り返って、窓の外、網戸越しにタワーマンションを指差してみせる。って、いっぱい並んでて、わかんないか。
「あの川のそばの。ほら、学校から、橋渡ったとこにあるタワマン。ほんとは俺、あそこに住んでるはずだったんだよなー。あそこのタワマン見に行って、赤ちゃんとちっちゃい子、連れてるお母さん見て、エレベーターあったって何があるかわかんないから、何かあった時、自力で上り下りできる階数じゃないと、って思った直後、俺がお腹にいるのがわかって、このマンションに決めたんだって。高校、合格できた時に『あそこなら歩いて通えたのにねえ』って言われて、初めて知った。今さら遅えよ!」
宇賀は窓の外見て、無反応。俺は謝る。
「ごめんごめん。関係ねえ話。勉強しよ」
宇賀に俺は兄ちゃんの机のイスを引っ張り出して――机の下の隠しエロ本を見てしまう。雑に重ねてる雑誌の背表紙がこっち向いてないやつがエロ本だと弟は知っている。兄ちゃん、エロは写真派なんだよなあ。俺、動画派。
「今宮、くん」
いきなり宇賀にくん付けで呼ばれて俺は笑う。
「んだよ。くん付けなんか初対面でもなかっただろうが。家に来たからってお行儀よくすんなよ。いつも通りでいいよ」
「だって」
宇賀は、「借りて来た猫」ってこーゆーの言うんだな。もじもじしてやがんよ。
「お母さんだって『今宮さん』だろ。当たり前だけど。呼び捨て、失礼かと思って」
あー、こんなこと考える宇賀は、今、兄ちゃんの机の下の隠しエロ本の話をしてもノッて来たりしないだろうなあ。バスケ部のヤツらとなら確実にエロ本見始めちゃって勉強しに来たのにしないパターンだよ。そもそもバスケ部のヤツらと勉強するわけがないけど。兄ちゃん、このイスでオナってんのかなあ。オナってんよなあ。いやだなあ、宇賀、座らせんの。かと言って俺のイスも汚れを知らないわけではない。でも宇賀だって男なんだから…――じゃなくて、今は、何の話してたっけ?えーと、俺ん家みんな今宮さん問題。呼び方なんて何でも、
「わかった。じゃ、想太でいいよ、晴」
「晴!」
晴がすっとんきょーな声を上げた。口を閉じると、すっげーヤな顔をする。
「俺はいいよ、宇賀で」
「名前呼びされんのヤ?俺は想太でいい」
「今宮でいいよ。別に。学校じゃ他に今宮はいないから」
「そりゃそうだけど」
「晴く~んっ!甘い物はお好きかしら?お飲み物は何がいい?コーラ?カルピス?」
ノック即ドアが開いて、ノックの意味ねえよ!名前問題でモメてる俺らの間にサラッと晴の名前を大声で叫んでトドがブッこんでキター!
「『部屋に入ってくんな!』っつっただろ、ババア!」
「いえ。どうぞおかまいなく」
晴が愛想笑いの仮面を着けて言った。リアルに初めて聞いたよ、「どうぞおかまいなく」。
「いいのよ。遠慮しないで。甘い物苦手かしら。おせんべもポテチもあるわよ」
そんな物、この家のどこに隠してやがる?!また子どもに隠して、てめえばっかりボリボリ食いやがって!トドはこれから勉強しようっていう机にバームクーヘンをお上品に斜めに重ねて盛った皿とワキの下にはさんで来たコーラとカルピスのペットボトルを置きやがる。それ、絶ッ《っ》対ヤなカンジにぬるくなってんじゃねえのか?!お前のワキで!いや、それよりも!こんなキレイなバームクーヘン、どっから出して来た?!俺たちがいっつも食わされてんのはお徳用切り落としバームクーヘンだぞ!こんなキレイに輪っかのバームクーヘンなんて俺たち食ったことねえよ!俺は皿を取り上げる。
「待て。食うな、晴。このトド、どっかからいいお菓子もらって来ると溜め込む習性があって、基本、てめえ一人で食っちゃうんだけど、うっかり賞味期限が過ぎたことに気付くと子どもに分け与えるんだ」
「いいじゃない。それであんたたちに何か健康被害がありましたか?」
「開き直んじゃねえよ、ババア!」
「だいじょうぶよねえ。男の子だもんねえ。ほんと晴くん、キレイなお顔ねえ~」
って晴のキレイな顔に汚ねえ顔を近付けんな!
「『だいじょうぶ』の設定基準が明らかにまちがってんだろ!晴はガサツな俺らとは作りがちっげ~んだよ!試験も近いのにお腹こわしたりしたら、てめえ、腹かっさばいて内臓にカモメ詰めて生き埋めにすっからな!」
「キビヤック」
晴が言う。
「そうそう、それそれ。すっげー臭えええの」
「腹をかっさばいた時点で死んでるんだから『生き埋め』はまちがってると思うな。それにトドじゃなくてアザラシだよ。内臓に詰めるのはカモメじゃなかったような?海鳥は海鳥だけど」
今の俺たち、会話だけ聞いたら、母殺しをしようとしている高校生二人ですよ。晴はとびっきりのハイパーMAXマーベラス笑顔で言った。
「今宮、勉強しよっか」
「はい…」
「はい…」
呼び捨てされた今宮二人はシュンッと声を合わせてお返事した。――思い出がめくるめく走馬灯のように巡った。走馬灯って本物見たことねえけど。晴に教えてもらった勉強の内容が走馬灯のように巡ったらいいのにな、試験の時。じゃなくて、廊下に張り出された2年生のクラス表。
2年1組。有生蓮。おお、バスケ部。2年はクラスいっしょか。今宮想太。俺、出席番号2番かあ。江川冴。2年も江川さんと同じクラスかあ。『「い」まみや』の後は『「え」がわ』か。「う」じゃない。
同じクラスに宇賀晴の名前は、ない。わかってはいたけど、胸がキュンッとした。晴、何組だろ?クラス表に晴の名前を探す。
宇賀晴。3組の出席番号2番。あ、その次、枝野、同じクラスだ。ちょっとうらやましいな。――晴を見ると、まだ1組の方を見てる。
「晴、3組だよ」
言って指差すと、俺を見上げた。薄い茶色の瞳が、泣きそうに見えた。えええええええ!俺は、あわあわ言う。
「お前…まさか、2年で文系と理系でクラス分かれるって知んなかったの?」
晴はこくんとうなずいて、顔を上げなかった。うええええええ…俺は晴の細い腕掴んで、クラス表を見る人たちの中から出る。晴がよく見れるように前に突っ込んで行ったのであって、俺みてえなでっけえのがいたら、他の人が見えないから。廊下の端っこまで行く。晴は下を向いたままだ。下を向いてると、ますますちっちゃく見えてよくないと俺は思う。
「何で知らないの?」
「そんな説明あったか?」
「それは…なんとなく、みんな知ってる」
って答えながら、俺、いつ知ったんだろう?と思う。
「進路ノート書いてる時に言えよ」
晴に言われて、俺はもぐもぐ、何にも言えねえ~。1年のいつだっけ?進路ノート書いて提出した後、
「晴、文系?理系?」
「理系」
聞くと、フツーに答えてくれた。俺は文系って書いて出したから、仲良くなれたのに、やっぱりクラス分かれちゃうんだなって思ったら、何にも言えなかった。
「あーあ」
俺はため息つく。
「検索したら、体育の先生になるのに、理系・文系、どっちでもいいらしいんだよな。晴が勉強教えてくれるなら、理系でもよかったな」
晴が顔を上げた。めっちゃ怒った顔をぷいっとそむける。
「お前の勉強見るの、飽き飽きしてたんだ」
吐き捨てて晴は歩いて行く。
「そんなこと言わないで~。クラスがちがっちゃっても、教えにもらいに行くから見捨てないで~。晴~」
追って行って俺が言っても振り返らない。俺は手を伸ばして腕を掴む。
「晴」
晴は俺の手を振り解こうとして、できるわけねーだろ、バーカ。
「もう教室、校舎ちがうから。2年は南校舎」
俺は、晴の腕から手を離した。こんな所でケンカしてんの目立つと思ったから。晴は下を向いて俺を見ないまんま、廊下を戻って、南校舎へ向かう。俺は、追えなくて、2年でクラスいっしょのバスケ部の蓮を探した。
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