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【本日の御予約】 小坪巴 様 序
あたしにとって初めてのお客さん、小坪巴さんから予約の電話がかかってきたのは、四月の第三週目――あたしが『うらおもて』でアルバイトを始めて、ちょうど十日目のことだった。
いきなり言い訳がましくなってしまうけれど、初めて予約の電話を取った日だったから、ひどくたどたどしい、それでいて無愛想な対応になってしまったように思う。
……普段のあたしに愛想があるかは、別の話として。
「ええ、はい。たぶん大丈夫だと思うんですが……えっと、その、一応確認してきますので、少々お待ちいただけますか」
すっかすかの予約台帳を穴が開くくらいにらみ、希望の予約日が空白になっているのを確認――それでも不安で、あたしは浦面さんに確認を取ることにした。
〝からっぽ〟なあたしは決定という行為が、上手くできない。
「うら……摩子さん、ちょっといいですか」
摩子って呼んでよ、店の名前と被ってややこしいからさ――。
と。アルバイト初日に言われた言葉を思い出す。
「はいはい、裏摩子さんお呼びかな?」
愉快な笑顔を引っ付けて現れた黒髪の和服美人――民宿『うらおもて』の店主である浦面摩子さんに、あたしは苦笑いで応える。
「ふふっ、相変わらずみちるちゃんはつまらないね」
と、あたしのつまらない反応さえ楽しむように、摩子さんは笑顔を重ねた。
「それでどうしたのかな?」
「えっと、いま小坪さんって方から予約の電話がかかってきてて――その、GWを全日……五日間連泊したいってことなんですけど、この予約って受けても大丈夫ですか?」
「あー、もうそんな時期なんだね」
「……?」
思っていたものとは違う反応に、あたしは戸惑う。そんなあたしを傍目に摩子さんは保留にしていた受話器を取った。
「あ、もしもし巴? 私だけど、あんた今年も来るの? 出版社がうるさいって……また痛い目に遭っても知らないよ? ……はいはい、わかったわかった。じゃあくれぐれも気を付けておいでよ。うん、じゃあね」
宿泊客というより友人――だろうか。
あたしや凛介に向けられるモノとは種類の違う砕けた口調が、そう思わせる。結局そのまま摩子さんが受話器を置き、予約台帳を埋めてしまった。
「すみません、結局摩子さんに頼っちゃって……」
「うん? ああ、予約のこと? べつに気にする必要はないよ。初めのうちは誰にだってミスや不安が付き物。これからゆっくり慣れていけばいいさ」
「で、でも……」
優しい言葉を掛けてくれた摩子さんに、しかしあたしは言い淀む。
現状、ほとんど鳴らない電話の前に座っているだけでお金が貰えている。
もちろん電話番以外にも少しずつ仕事を任されているけれど、それでも申し訳なさや、後ろめたさが先立ってしまうのだ。
ましてや、あたしは〝からっぽ〟なんだから――。
せめて迷惑だけは掛けたくないと、そう思うのに……。
そんなあたしの心を読んだ……訳じゃないと思うけれど、摩子さんはあたしの顔を見て、やっぱり笑った。
「〝からっぽ〟って事は、視点を変えれば〝素直〟ってことでもあるよ。
みちるちゃんは、頑張ってほしいことを当たり前のように頑張ってくれる。頼んだことを頼んだ通りにこなしてくれる。
それは難しいことじゃないけど――かといって、誰にでもできることじゃないんだよ。
だから私は、とても助けられてるよ。ちゃんと、ね」
そんな事を言われて――あたしは何も言えなくなった。
視点を変えるなんて。
そういう風に考えたこと、一度もなかったから。
「ともかく。ミスや不安を無くすには数をこなして慣れるのが一番さ。
と言ってみたものの、まずは予約が入らないことには練習ができないんだけどね……。
こんなに暇な日が続くとは、正直予想外だったよ。去年はもう少しお客さんが入ったはずなんだけど――まあ仕方ないね」
少々投げやりに結んで、摩子さんは予約台帳を閉じる。
「べつに暇なら暇で良いんだよ。どうせこの店は趣味というか、義務でやっているようなモノだから」
「は――はあ」
中途半端に相槌を打つ。趣味と義務――相反する、決して交わることのない言葉が並んでいる気がするけれど、あたしには上手い返しが思い浮かばなかった。
「でも、そうだね。練習という意味で見るなら、巴はちょうど良い練習台になると思うよ。色々と、ね」
「……練習台?」
多少の無礼があっても構わないって意味だよ――。
もはやお約束みたいに、摩子さんはにやりと笑った。
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