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【本日の御予約】 小坪巴 様 ④
三日目。小坪さんは部屋に篭りきりになった。
摩子さんが言うには朝早くから起きているらしいけれど、今日はまだ顔を見ていない。昨日は昼食さえ四人で食べたというのに、この日は摩子さんが軽食を部屋まで持っていくだけだった。
「昨日まで賑やかだったから、なんだか寂しいね」
なんてことを言う凛介に適当な返事をして、呆っと庭を眺める。
予報通り本日も快晴。百日紅の蕾は一日を超える毎にほんの少し――しかし確実に膨らみを増している。
「巴のやつ、やーっとスイッチが入ったみたいだよ。相変わらず腰が重いったら。あとで痛い目を見るのは自分だってのにね」
昼食を運び終えて二階から降りてきた摩子さんが、やれやれといった風情で話し始めた。
なんのことかと考えて、すぐに答えにたどり着く。
「小説のこと、ですよね?」
「うん。ようやく書き始めてたよ。まったく、毎年こうなんだよね。
もっと計画的に書けば出版社から小言を言われることもないだろうに……。まあ、それができないところが巴らしさでもあるんだけどね」
「小説って、一冊当たり十万文字から十五万文字くらいでしたっけ。考えてみると、やっぱりプロって凄いですね。毎年恒例ってことは、小坪さんはそれだけの文字をたった一週間足らずで書いちゃう訳でしょう?」
凛介が訊くと――どうだろうね、と摩子さんは曖昧に笑った。
「去年までできたからって今年もできるとは限らないよ。プロにしかできないことは当然あるけど、プロにだってできないことはあるよ。
スポーツ選手なんかが良い例。前の試合でできたことが次の試合じゃ上手くいかないなんて、よくあることでしょ?」
「それはそうですけど……。でも一度できたっていう実績は大きいんじゃないですか? 自信に繋がるというか、ありていに言うなら経験値になるっていうか」
凛介はもっともなことを言う。その自信ありげな言葉は、もしかしたら凛介の得意な料理にも通じるところがあるのかもしれない。
そしてその言葉は妙にあたしに突き刺さった。
一度できたという実績。
自信と経験値。
それらが今日もあたしの〝あやかし〟を裏側に留めているのだから。
「経験値……ね。もちろん凛くんの考え方も間違ってないと思うけど、私としてはもっと理由の方に目を向けて欲しいと思うね。
どうしてそれができたのか――巴はどうして去年まで書けたのか。その理由を最後まで〝自覚〟し続けてくれれば良いんだけど……」
そう言って摩子さんは、どこか心配そうに階段を見やる。
自覚。その言葉もまた、先月の出来事を思い出させる単語だ。
「まあ、巴の性質上――性格上、それは難しい注文だろうね。
という訳で。あいつは〝おもてなし〟を求めてこの店に来た訳だから、こっちもできる限りのことをしよう。さしあたって三時になったらコーヒーでも差し入れようかね。
その時は――みちるちゃん。お願いできる?」
「はい。わかりました」
余裕を持って答えると、摩子さんはいつも通りにやりと笑った。
やっぱり本家の笑みは凄みが違う、なんて思う。その証拠に胸の奥がざわざわした。
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