【本日の御予約】  小坪巴   様 ④

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 恐ろしい光景が広がっていた訳でも、ましてや得体の知れない存在が居た訳でもなくて――ただただ純粋に。  肌に突き刺さる暴力的な寒さ。  明らかに不自然なこの冷気は、あたしが20℃に設定したエアコンが吐き出しているんだろう。まるでこの部屋だけ季節が巻き戻ったような錯覚に襲われる。    あまりの寒さに鳥肌が立つ一方で、しかし驚くべきことに、小坪さんはノースリーブにハーフパンツという薄着の極地のような格好でノートパソコンに文字を打ち込んでいる最中だった。 「どしたん? もう夕飯……にしてはちょっと()やない?」  と。ノートパソコンに視線を向けたまま声だけで訊かれて、あたしは我に返る。 「そうじゃなくて……えっと、三時になったのでコーヒーの差し入れを」 「あー、おおきに。そこ置いといてくれたら後で貰うわ」 「あっ、はい――」  小坪さんの指すとは、お昼に摩子さんが持っていったおにぎりが手つかずのまま放置されている場所だろう。  言われるまま水滴が浮かぶグラスをおにぎりの隣に置きながら――耳に残っていた摩子さんの言葉が(よみがえ)る。  多少強引にでも休ませてやってよ。  改めて考えても、あたしには荷が重い注文だと思う。  真剣な表情でノートパソコンと向き合い、どことなくピリピリした空気を放っている小坪さんに話しかけるなんて、普段のあたしなら絶対にしない。  けれど、このまま部屋から出てしまったら摩子さんの頼みに答えられない訳で――。 「あ、あの。氷が溶けると美味しくなくなると思うので、少し休憩されませんか……?」  唾を飲み込んで、思い切って言ってみた。  こんな事を言うこと自体が仕事の邪魔かもしれないし、小坪さんは余計なおせっかいだと感じるかもしれない。  けれど生憎(あいにく)――この場合は不幸中の幸い、か。  そんな風に思うだけで、実際に気を遣う為のデリカシーを〝からっぽ〟なあたしは持ち合わせていないから。  むしろ、これで摩子さんに言い訳ができる――なんて浅ましいことを考えていると、小坪さんは「んんーっ」と色っぽい声を上げて背伸びを始めた。  ノースリーブを着ているせいで真っ白な細腕、さらにその奥の腋までが無防備に晒される。 「そうやね。せっかく〝おもてなし〟して貰てるんやし、美味しいうちにいただくのが礼儀やね」  そこまで言って、小坪さんはやっとあたしの方を向いて――優しく笑った。  おかげであたしの緊張もいくらか(ほぐ)れる。 「なぁみちるちゃん。ついでって訳やないけど、ちょっと肩揉んでくれへん?」 「肩、ですか?」 「ずーっと同じ姿勢で座ってると肩凝って仕方ないんよ」 「そういうことなら――あたしで良ければ」 「うん。お願いします」  一切の躊躇なく氷たっぷりのアイスコーヒーを飲み始めた小坪さんの脇を抜けて、背中に回り込む。当たり前だけれどやっぱり肩も細くて、あたしは割れ物に()れるような慎重さで手を乗せる。   「……っ!?」  一瞬、何が起きたのか理解できなかった。  小坪さんの肩に触れて最初に思ったのは、凝っているとか、肌がさらさらしているとか。そういう感想じゃなくて――。  だった。
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