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「みちるちゃーん」
呼ばれて、皿を拭いていた手が止まる。
「はーい。なんですか?」
隣で洗い物を続けている凛介に後を任せて厨房を出ると、摩子さんは封を切ったばかりのダンボールからペットボトルコーヒーを引っ張り出しているところだった。
「何度も頼んじゃって悪いんだけど、巴に食後のコーヒーを届けて貰えるかな?」
そんな言葉と共に、あたしはペットボトルを受け取る。
蓋を開ける――そんな些細な力仕事さえ、摩子さんの右手は得意としていない。
「ああ、それと。風呂くらい入れって言っといてくれる? どうも巴のやつ、昨日も入ってないみたいなんだよね。明日は昼前に帰る訳だし、身だしなみくらい整えろって伝えといてよ」
やれやれといった風に摩子さんは眉を八の字に曲げた。
「えっと……、頑張って伝えます」
「うん、よろしく。それが済んだら今日はもう凛くんと上がっちゃっていいからね」
もうそんな時間なのかと、壁掛けのアンティーク時計を見やる。
時刻は午後八時を少し過ぎていた。
いつも時間が早く感じるのは……なんでだろう。
ともあれ。
この日最後の仕事に向かうべく、さっそくあたしは御盆を手に取った。上に乗せるのは当然ながら氷たっぷりのアイスコーヒーだ。
階段を登るあたしに不安定さはすでに無い。
昨日からずっと差し入れを届け続けた結果、いつの間にか慣れてしまったのだ。まあ、板張りの廊下だけはどうしても音が鳴ってしまうけれど。
こんな特技が身に付くなんて一ヶ月前は想像さえしていなかった。
でも、悪くない。
だってこれは〝からっぽ〟なあたしがこの店で初めて得たモノと言えなくもないから――。
なんて事を考えているうちに、あっという間に客室にたどり着いた。
「小坪さん、食後のコーヒーいかがですか?」
こんな声掛けも慣れたモノだ。
小坪さんが毎回快く受け取ってくれるのもあって――なんだか、あたしがあたしじゃないような感覚さえ湧いてくる。
……ただし、今回は少し様子が違った。
いつまで経っても返事がないのだ。
声が小さかったのだろうか?
そう思って、もう一度、声量を上げてみる。
「小坪さーん?」
それでもやっぱり、声は返ってこない。
こんなこと一度もなかったのに。
もしかして眠ってしまったのだろうか?
出直すべきかと考えて――こんな時でさえ、あたしはすぐには決められない。
かといって、小坪さんが起きるまでここに居る訳にもいかない。
「……、」
必死に考えて、なんとか一つの結論を出す。
本当に眠ってしまったのか確認だけしておこう、と。
摩子さんから伝言を預かっているし、それにもし起きているなら帰る前に挨拶をしておきたいし……と、自分で自分に言い訳をしながら、音を立てずに襖を開ける。
「……え?」
もはやお馴染みとなった暴力的な冷気が一気に噴き出してくる。
けれど、あたしの全身は――別の原因で鳥肌を立てていた。
ノートパソコンの前で、小坪さんが倒れていた。
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