【本日の御予約】  小坪巴   様 ⑦

3/6
前へ
/37ページ
次へ
 初めは、やっぱり眠っているのだと思った。  力尽きた風に、ぐったりと天井を仰いでいる姿は、まさに『疲労』そのものを体現している様だったから。  しかし汗まみれの額と乱れに乱れた呼吸が、と訴える。 「え――えっ」  訳がわからないまま、まずあたしは持ってきた御盆をのん気にテーブルに移動させるところから始めた。  だって、ただでさえ物事をすぐには決めらないあたしなのだ。一手でも間違えれば命に直結しかねない場面で、迅速かつ的確な決断なんて、できる道理がない。  だからあたしが(ふところ)からハンカチを取り出したのは、熟考した結果なんかじゃなくて――とにかく汗がひどいから拭いておこう、くらいの陳腐で幼稚なだった。  反射……。  つまるところ、あたしはまだ、何も変わっていないということ。  文字通り、致命的なまでに、あたしは役立たずということ。  ……なんて。  いま考えるべきじゃないことばかり考えながら――それでも動き出した手は止めずに、小坪さんの額にハンカチを当てる。 「熱っ………………!」  ハンカチからはみ出していた指先が額に触れた瞬間――右手があたしの意思を無視して、脊椎反射で空を切った。  指先が感覚を失うほどに痺れ、やや遅れて痛みが襲ってくる。  それはまるで、火にかけた薬缶(やかん)に触れてしまったような――。  昨日、肩に触れたときの熱とは質も格も全く違う――比べることすら莫迦(ばか)らしい、およそ人間が触れられる温度をはるかに超越した熱量。そして言うまでもなく、明らかな〝異常〟。  いよいよ思考がパンクしそうになる。  何ひとつ意味が分からない。  けれど〝異常〟過ぎるからこそ、直感が告げた。  これは〝あやかし〟の仕業だ――。  とはいえ、熱のがわかったところで何の解決にもならなかった。  だって。それはありえないはずだから……。  そうだ。それはありえないはずなのに……っ! 「――っ」  思考が。  視界が。  一秒ごとに狭くなる。一秒ごとに色を失っていく。  このままでは本当に何も考えられなくなると直感して――。 「――――助けてっ!!」  無意識の叫びに、あたしが一番驚いた。  でもいまはそんなことを気にしている暇はない。  いまこの瞬間、あたしの脳裏には一人の顔が浮かんでいる。  どうしてその顔が浮かんだのか――。  そして、この感情の名前をあたしは知らないけれど――。 「凛介っ!!」  その名前を叫ぶことに、迷いは一切なかった。
/37ページ

最初のコメントを投稿しよう!

32人が本棚に入れています
本棚に追加