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どれくらい経っただろうか。
「……みっちゃん、少し代わろうか?」
もう何杯目かわからない氷水を持ってきた凛介が神妙な声で訊いてきた。
自分だって重たいバケツを上に下にと運び続けて疲れているくせに、それでもそんな事を言うのは、あたしの手が水ぶくれだらけになっているからだろう。
事実、氷水に突っ込んだ指先の感覚は、冷たいから痛いに変わり果てている。
「――もう少しだけ、やらせて」
痛みを麻痺させる為にタオルをきつく絞って、あたしは凛介の提案を断った。正直、どうしてそうしたのか、自分でもよくわからない。
客観的に見れば、あたしはアツくなっているように見えるだろう。
まるで、小坪さんの〝高熱〟に中てられてしまったかの如く。
いま凛介と代わっても、きっと大きな変化はない。むしろ〝からっぽ〟なあたしより、凛介の方が〝おもてなし〟の心を持っていると思う。
言われるがままに手を引くのは簡単なこと。
反射で生きてきたあたしにしてみれば、その方がらしいとさえ言える。
――それでも。
辞めたくないと思った。
ここで意地を張るのは、たぶん意味のないことだ。
けれど、意味がないからって無駄とは限らないと思う。少なくとも無価値じゃない。だってそれを決めるのはあたしなんだから。
決めることを大の苦手とするあたしが、辞めたくないと――続けたいと思った。
初めて、明確に、そうしたいと思った。
だったら、そこには何かがあるはずだ。
思う。
その何かこそが〝からっぽ〟を埋めるモノなんだろうか――。
「――――――――んっ」
答えの代わりに――小坪さんが小さな呻きを上げた。
「巴っ、いつまで寝てるつもりだい。いい加減、目を覚ましな」
突然の声に肩がびくりと跳ねた。
寝坊助を起こす母親のような声。それは、ずっと口を閉じていた摩子さんの声だった。そしてその声に呼応するかのように、小坪さんのまぶたがゆっくり上がった。
「あんた、やっぱりまたやったね」
「…………かんにんやから、そない怒らんといてぇな」
小坪さんの力無い返答に、やれやれと息を吐く摩子さん。
「私じゃなくて、二人に謝りなよ。特にみちるちゃんは、ずーっとあんたに付いててくれたんだからね」
焦点の定まらない小坪さんの瞳があたしを向く。それからゆっくり右手が動き出して――あたしの水ぶくれだらけの指先の近くで止まった。
触れられていないのに、痛みが温かさで上書きされるような、不思議な感覚。
「こないになるまで……。ほんに、ごめんな。それから――――」
ありがとう。
がの部分にイントネーションのある御礼。それはこれ以上ないほど真っ直ぐあたしに向けられていて――思わず、ふいと顔を逸らしてしまった。
こんなとき、自然に笑えるあたしになりたい――。
また一つ。
心の底から、切実に、そうしたいと思った。
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