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「こちらに住所と電話番号を。あとここにサインをお願いします」
「はいはーい」
事前に教わっていた手順を思い出しながら受付を進める。
文字を書くことに慣れているんだろうか――小坪さんはもの凄いスピードで書類を埋めてしまう。慌ててあたしは次の仕事に意識を向けた。
サインを貰ったら……そうだ。
「お荷物、お部屋まで運びましょうか?」
「ん? ああ、そないに気ぃ使わんでええよー。このくらい一人で運べるさかい気持ちだけ貰とくね――ありがとう。えっと……」
小坪さんの視線があたしの胸に落ちてくる。たぶん名札が無いか探しているんだろう。
名乗るべきか――迷う。
たったそれだけの事さえ、あたしはすぐに決められない。
「その子は紫乃原みちるちゃん。それと奥に居る男の子が架条凛介くん。みちるちゃんは最近雇ったばかりでね。あんたが初めてのお客さんだから、意地悪しちゃダメだよ?」
「……その台詞、摩子にだけは言われたないわ」
……同感だ。
なんて思っていると、呼ばれた事に気付いた凛介が厨房から顔を出してきた。そのままいつもの笑顔で会釈したのを見習って、あたしも小坪さんに小さく頭を下げる。
「二人ともよろしゅうね」
「ちなみに二人は恋人同士だよ」
間髪入れずに摩子さんが言う。
……その情報は必要なんだろうか?
訝しく思いながら凛介に視線を送ると、案の定、肩をすくめていた。
「ほほう?」
しかしそんなあたしたちとは対照的に、小坪さんは笑った。
まるで良い獲物を見つけたと言わんばかりの意地悪げな笑み。外見の印象は正反対なのに、その笑みは摩子さんのそれを連想させた。
見ているこちらがそわそわしてくる――あの笑みを。
「なんかええネタになりそやし、あとで詳しゅう聞かせて貰おかな。でもその前に、まずはこの荷物を片付けてくるわ」
言うや否や、小坪さんはキャリーケースを軽々と抱えて二階の客室へ去ってしまった。一つ一つの行動というか、決断の速さに思わず面食らう。
どうしてそんなに早く物事を決められるのだろう……、と。
ともあれ。
姿が完全に見えなくなるまで見送って――あたしは、ほっと息を吐いた。
今日が連休初日なのを考えれば仕事はまだ始まったばかりだけれど、とりあえず第一関門は突破だ。
小坪さんが優しそうな人だったのも相まって、安堵感で肩の力が抜ける。
「みっちゃん、大丈夫?」
声がして、一拍置いてからあたしの肩に凛介の手が乗った。驚かせないようにと気を回してくれたんだろう。
大きくて暖かい手。指先からほんのり漂ってくる玉ねぎの残り香が、あたしをさらに安心させてくれる。
「ん。大丈夫」
いつも通り無愛想に答えて、受付の書類に意識を戻す。
「――――あれ?」
と。一つおかしな点に気づいた。
それは住所でも電話番号でもなくて――ただサインを貰うだけの、最も簡単な部分。
「どうかした?」肩越しに凛介が覗き込んでくる。
「なんか、名前が違うの」
「え?」
本来『小坪巴』と書いてあるべき場所には、英語の筆記体を思わせる滑らかな文字で、普段あまり見る機会のない四つの漢字が並んでいたのだ。
「ほんとだ――あれ、でもこの名前って」
そこで唐突に言葉を切って。凛介は考え込む風に額に皺を寄せた。
けれど、待てども次の言葉が出てこない。そうこうしているうちに摩子さんがやってきて、
「ああ。巴のやつ、サインって言われてあっちの名前を書いていったんだね」
「……あっち?」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
そんな確認の言葉に、あたしはふるふると首を振る。
「本屋さんとかで見たことない?」
重ねて、首を振る。すると摩子さんは、
「この名前もあいつの名前には違いないから、べつに良いんだけどね」
そう前置きしてから、筆記体になっていた文字を一つ一つ丁寧に別の紙へと書き写し始めた。
恍惚の――『惚』
恋慕の――『慕』
見蕩れるの――『蕩』
萌えるの――『萌』
「あー、そうだっ! 思い出した!!」
急に耳元で大きな声がして、肩がびくっと跳ねた。
結局、驚く羽目になるのか……。と、なんだかやるせない気持ちになる。
ともあれ。どうやら凛介は答えにたどり着いたらしい。
けれどあたしはまだピンと来なかった。というか、ここまでヒントを貰ってもわからないのだから、たぶんあたしは知らないんだろう。
見かねた様子で摩子さんが笑った。
「惚慕蕩萌。あいつは甘々な恋愛が専門の――小説家なんだよ」
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