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プロローグ:おじいさんの昔話
ミックススパイス島の西部には、砂漠と草原が広がっている。
点在するオアシス。その近くに、村ができ、街ができて、人々はそこを拠点にして遊牧や農業を中心とした生活を送っていた。厳しい環境は、それだけで人に試練を与えるものだ。この地域に住む者たちは、他の地域の者たちよりも自立心が強く、肉体と精神も素晴らしいものを持っていた。
しかし、強すぎる自立心は、良い面ばかりではない。個人を支えるのはともかく、集団を支えるのには、しばしば邪魔となるのだ。
ただでさえ交通がままならない環境。オアシスごとに部族が固まって生活し、他の部族との交流は、少ない。そのため長い間、この地域は国としてまとまることがなかった。一説によると、多い時では三百ほども部族があり、対立が絶えなかったという。
彼らはこのまとまりのない自分たちのことをさげすんで、こう表現していた。「蛸壺がたくさんある砂漠」と。
「あいつらは確かに強い。一対一ではかなわないかもしれない。しかし、それだけだ。個人的にいくら強くても、国として強い、というわけではない」
他国のリーダーたちはそう言って、この砂漠と草原に住む民たちをそこまでは恐れていなかったのである。
しかし、この状況は激変する。ハバネロ・ゲキカという英雄が現れたからだ。
彼は、その軍略と政略をもって、またたく間に部族を統合していった。一が十になり、百になった。倍々式に増えた勢力は、この輝かしい英雄を熱狂的に支えた。それまで「蛸壺」にこもっていた反動も、おそらくあったのだろう。彼は、首都をトルティヤという街に定め、自らのことを「公爵」と自称し、自らの国のことを「蛸巣公国」と呼んだ。ハバネロ・ゲキカ公爵が率いる蛸巣公国。ミックススパイス島に突然に舞い降りた新星。他国のリーダーたちは、彼がいつ襲ってくるのかと、恐れおののいた。
…その老人は、トルティヤの街に住んでいた。すでに立って歩くのもおぼつかないほどだ。来客も、絶えて久しい。しかし彼は、その残りの命を燃やすかのように、毎日机に向かい、蛸巣公国の歴史を書いていた。
そんな孤独な老人の家に、ある日の朝、一人の若者がやってきたのである。
「こんにちは。おじいさんが、このトルティヤの街で一番歴史に詳しいって聞いたんですけど、本当ですか?」
いつ以来の来客だろうか…ととまどいながら、老人は若者に答えた。
「いかにも。わしは、この国の歴史を書いておる。残り少ない命の中で、どこまで書けるのかはわからんが、できるだけ残しておこうと書いておる途中なのだ。この砂漠と草原の民が、いかに生まれ、いかに死んでいったかを、な。特にゲキカ公爵のことを…」
「…おじいさん、ゲキカ公爵のことを聞きたいんじゃないんだ」
若者は、老人の機先を制するかのように言った。
「『人事屋エイル』がどのように蛸巣公国を変えたのか、それが知りたい」
老人は、目を見開いた。この国の英雄であるゲキカ公爵ではなく、他国から蛸巣公国にやってきた「ジンジャー・エイル」のことを知りたいだと? 老人の疑問を感じ取ったかのように、若者が言葉を継いだ。
「この国を、蛸壺から大きな蛸に育て上げたのは、ゲキカ公爵だ。だけど、その蛸が弱くなったとき、蛸壺を叩き壊してさらに大きくしたのは、エイルなんじゃないかな」
老人の脳裏には、昔の懐かしい情景が、すでに浮かんでいた。エイルという名前は、彼の脳細胞をいたく刺激したようだ。
「…よかろう。話してやってもよい。しかし、わしの貴重な執筆時間を割いて、わざわざ話してやるのじゃ。無料というわけには…」
「これで足りるかい、おじいさん」
若者が差し出した金貨を見て、老人は再度目を見開き、何度もうなずいた。若者を家に招き入れて、客間に座らせた。ゆっくりと口を開く。
「…エイルが、このトルティヤに来たいきさつから話してやろうかの」
こうして、昔話が始まったのである。
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