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その後、一ヶ月以上美佳から連絡は無く、僕からも連絡をすることは無かった。今までこんなに会わないことは無かったと思う。季節はジメジメとした梅雨に入り、ジューンブライドには間に合わなかったんだな、と職場のパソコンを叩きながらふと思った。
「零、久しぶりに飲み行くか!」
「いいっすね!」
職場の先輩の岡本さんが飲みに誘ってくれた。こういう日もないとな。美佳が来るあての無い部屋に一人でいても寂しさが募るばかりだから。
二軒目にバーに行った。美佳と出会った場所だけど、元々僕の好きな店だ。行かなくなる理由もなかった。
「さーすが! 谷編集長が言ってただけあってお洒落な店知ってるんだな」
酒を注文した後に先輩の岡本さんが言った。
「え? 谷さん僕のことなんて言ってたんですか?」
谷さんは編集長で、僕を今の編集部に拾ってくれた人だ。何と思われているのか評価が気になった。
「んー、“女の子を拾う手腕には定評がある”って感じかな」
「うわー、何ですかそれ、まるで人をケダモノか何かのように。そんな定評要りませんよ」
「アハハ、でも女の子には不自由してないだろ」
コースターにグラスが置かれる。岡本さんはウイスキーのロック、僕はモヒートにした。
「そうでも、ないですけどね」
先月までは、何も考えずに、美佳や女の子と寝ていた。もう美佳もいないのだから自由にやればいいのに、僕はそれができなくなっていた。
「まあ、若いうちに遊んどくのが一番だ。結婚したらそうも行かなくなるしな」
結婚ね。
僕には一生縁のない話だけど。
「岡本さんは、いくつの時にご結婚されたんですか?」
「俺? ああ、もう六年前かな。三十五の時。もうそろそろ待たせてばっかりでもなと思ってさ」
「お子さんもいるんでしたっけ」
「いるよ。四歳の娘。大きくなって彼氏とか連れてきたらどうしようかと思ってるよ、今から」
穏やかに笑いながら岡本さんは子供の話をした。そうか、こういう感じが普通なんだ。僕にはその喜びや求める理由がわからない。
「そう言えばさ……」
岡本さんが仕事関係の面白い話をしてくれて、その後はそれで盛り上がった。
「いい時間だし、そろそろ帰ろうか」
「そうですね」
二十三時過ぎ。子供のいる人を引っ張り回してしまった。会計を済ませて店を出ようとすると、入ってきた客がいる。それは、僕がよく知っている女性と、眼鏡を掛け、スーツを着た知らない男だった。
「美佳……」
美佳だったけれど、その人は僕の知っている美佳ではなかった。僕は癖っ毛みたいなパーマを下ろしてカジュアルな服装をしている姿しか知らない。今の美佳は髪を緩くまとめ、コンサバティブな服装をしている。ワイドパンツに品の良いブラウスにパンプス。ネクタイを少し緩めた隣の男とよくお似合いだ。
少し広めの店内で、僕はカウンターの奥の方に座っていた。美佳は僕に気付いたのか気付いていないのかわからない。僕のいるカウンターではなくテーブル席に男と向かい合って座った。
「零、お待たせ、行こうか」
トイレに行っていた岡本さんが戻ってきた。
「いえ……、行きましょうか」
僕は席を立ち、出入り口に向かう。必然的に美佳と男の横を通ることになる。美佳は僕から見ると背中を向けているが、通り過ぎた時に、彼女の左手の薬指にエンゲージリングが見えた。婚約指輪をして、こんな夜中に婚約者以外の男とバーには来ないだろう。そうか、これが美佳の夫になる男なのか。
「カップルで座ってた今の男見たか? えらくガタイが良かったな」
通り過ぎてバーのドアを出る時に岡本さんが言った。ありがとうございましたー、と店員とマスターの声がする。
「そうですね」
確かにその美佳の婚約者と思われる男は、体格が良かった。あれは鍛えている人間の体つきだ。
「なのに面白いな。お前に目元が似てた」
「えっ?」
僕はその男の顔までまじまじとは見ていなかった。
「こう、真顔だとつり目っぽいのにさ、笑うと垂れ目になる感じが」
「……岡本さんあの一瞬でよく見てましたね」
「トイレから帰ってくる時によく見えたんだよ、ガタイが良くて目立ってたから」
「へーえ……そうなんですか……」
「ま、お前の方が断然スマートでいい男だけどな!」
笑いながら岡本さんは僕の肩を叩いた。
僕は岡本さんに挨拶をして、別れた。しのつく雨が、ますます僕を憂鬱な気持ちにさせる。
美佳は僕を裏切った訳でも、嘘をついた訳でもない。
ただ、これから結婚するから、身体だけの関係の男を切っただけだ。きちんと報告までして。突然音信不通になったっていいのに、美佳はそれをしなかった。
やっぱり公務員だな。根が真面目なんだ、僕と違って。
このまま一人の部屋に帰る気には到底なれなかった。何度か寝たことのある女の子にメッセをしてみたが、連絡がつかない。
僕は、音楽ではなく一晩だけの相手を探すのが目的の人が集まることで有名なクラブに足を運んだ。
誰でもいい、今すぐ誰かを抱きたい。
最初に目が合った女の子の腰を引き寄せた。週末のクラブは混雑していて、誰が誰のどこを触り何をしていようと気にするものは誰もいなかった。
「そのピアス素敵ね」
耳元で女の子が囁く。彼女の唇に塗られた艶やかなグロスが、粘着質な音を立てる。
「ピアス以外にも素敵なところがあるんだけどな」
女の子の手を掴んで、僕の腰に回した。ネイルが塗られた手が僕の身体を確かめるように、服の上をあちこち這った。硬いジーンズの前の方も丁寧に。そんなところまでちゃんと確認するんだ。僕は少し微笑んで彼女の尻を撫でた。
「……素敵なとこ、教えて」
僕の首に腕を回して、最初から舌を絡める深いキスをしてくる。どうやら僕は合格したみたいだ。女の子のつけている甘ったるいキャンディーみたいな香りの香水が揮発して、僕に纏わり付いた。
クラブを出てすぐ裏のホテルに入って、久しぶりに女の人の身体を抱いた。
温かいのに、気持ちがいいのに、たくさん汗と体液に塗れているのに、その子の身体はやっぱり、美佳とは全然違っていた。
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