109人が本棚に入れています
本棚に追加
美佳のことは仕事に打ち込んでいれば思い出さない。人が変わったように仕事をする僕を見て、谷さんも岡本さんも、やっとヤル気になってくれたな、と喜んでくれた。
「零、お前が何でもできるからって、頼みすぎてないか?」
谷さんがオーバーワークではないかと心配して、声を掛けてくれた。
「いえ、何でもやってたことが役に立ってるんで逆に嬉しいです」
僕は基本的にライターだが、もらった仕事は何でもやっていたので、例えば、フライヤーを依頼された場合はデザインまでやっていた。僕に依頼する側も、デザインとライティングを別に頼むよりも安くつくから、喜んで依頼してくれていたのだ。クラブとかによく顔を出していたおかげで、音楽関係のイベントやバンドのフライヤー、CDに入れるライナーをよく作っていて、それが今の仕事にも生きていた。
「個人的に受けてる仕事もあるんだろ? 無理はするなよ」
「あー、今はそれほどでもないです。また案件入ったら相談させてください」
「ああ。その時は言ってくれ」
そろそろ、個人仕事用の名刺の肩書きに、デザイナーというのも入れていいかな。作り直そう、今の名刺も飽きてきたし、と考えながら僕はマウスを動かした。
スマホが鳴った。知らない番号だ。仕事かもしれないので、すぐに電話に出た。
「はい、もしもし、槙山です」
「ライターの槙山零さんのお電話でよろしいですか?」
女性の声だ。少し硬い声だが美佳によく似ている。耳が一瞬で熱くなった。
「はい」
「わたくし、若佐と申します。冊子のデザインなども手掛けておられると伺いまして……」
美佳じゃなかった。美佳の名字は三原だ。当たり前だ、彼女が僕に電話をする理由なんてない。
「はい」
「……結婚式で使うペーパー関係のデザインをご依頼したいのですが」
「……僕に、ですか?」
僕は混乱した。僕が今までデザインしてきたのはほとんど音楽関係ものばかりで、結婚式に使うような上品で洗練されたデザインのものは取り扱っていないし、やったこともない。
「はい、式場のものを見てみたのですが、デザインで、気に入ったものがなかったんです。それで、招待状から、席次表その他も含め、お願いしたいと。もちろん相応の金額をお支払いしますので」
「あー、あの……、一度直接お話を伺ってもいいでしょうか? 自分にできる案件なのか、他の方をご紹介した方がいいのか、電話では判断できかねますので」
「わかりました、ではいつ頃がご都合よろしいですか?」
「そうですね……今週の土曜日はいかがでしょうか? できれば式や披露宴をされる場所でお願いします。雰囲気を掴みたいので」
「土曜日ですね。大丈夫です。十四時にグランドプリンストンホテルのラウンジでお願いします。噴水の向こうの窓際の席にいますので」
「緊急の場合は、こちらの番号にお掛けしても?」
「はい、お願いいたします」
僕は電話を切った。
ちょうど昼休みに入ろうとしていたから、パソコンでホテルと結婚式のことについて調べてみた。そのホテルが高級ホテルなのは知っていたが、結婚式場としても人気の高い場所なのを知った。
「お? 何見てんの? 零、結婚するのか?」
岡本さんがモニターを覗いて冷やかしてくる。
「違いますよ、さっきの電話、デザインの依頼だったんです。結婚式の紙もののデザインをして欲しいって。全くわからないから調べてたんです」
「へーえ、印刷まで請け負うならかなりマージン乗せられるな~。結婚式は少しくらい高くても出してくれるから、しっかりもらっとけよ」
「まだ受けるかどうかもわかりません。話を聞いてきます」
「フリーランスは何でも請け負ってナンボだろ? 頑張ってみろ」
ニカッと笑って、岡本さんは僕の肩を叩いた。
岡本さんもフリーランスだったが、結婚を機にこの会社の正社員になったという。元々はノンフィクションライターで、かなりヤバい世界にも首を突っ込んで取材をして書いている人だった。岡本さんの記事の切り抜きや本はもちろん僕の本棚にある。憧れの人だ。もちろん今も。自由にできるうちにやっとけよ、というのは岡本さんの口癖だ。
「そうですね、やってみようかな」
その週僕は家に帰ってから、見積もり作りに励んだ。ついでに新しい名刺も作成した。気分を変えて仕事をしてみよう。
土曜日、若佐さんと約束したグランドプリンストンホテルに向かう。僕はスーツは似合わないけれど、それなりの服装で行かないとな。ジャケットを羽織って出かけた。
時間よりも二十分早く着いてしまった。噴水の向こうの窓際の席を確認したが、一人で来ている女性もカップルも見当たらない。仕方ない、先に座って待とう。
コーヒーを注文して、見積もり書をブリーフケースから出して確認する。
最初は少しふっかけた値段にしてあった。それから値引きした方が安くなった気がするものだ。それに、そもそも請け負うかどうかも決めないとな。厄介そうなクライアントなら断ろう。職場にも迷惑を掛けてはいけないし。
「お待たせしました、若佐です」
「いえ、初めまして……」
スマホから目を離して見上げると、そこには髪を柔らかくまとめ、上品な服装をした美佳がいた。
最悪だ。
コイツは僕に自分の結婚式の準備をさせるつもりなのか。
頭に一気に血が上った。
「おい、どういうつもりだよ、フザけんな!」
僕は席から立ち上がった。周りの人が何事かとこちらを見たのがわかった。
「ゼロ君、人が見てるから座って」
僕が怒ると思っていなかったのか、美佳は僕の腕に手を掛けて座るように促した。
「触るなって!」
「スマホ替えたの。それに私も職場からだったから、普通に話せなくてごめん」
謝りながら美佳が僕の手を握った。たったそれだけなのに、僕の手が彼女の手に溶け込んでしまいそうな感覚が襲い、力が抜けてきた。
「美佳、どうしてなんだよ……」
「本当に、気に入るのがなかったの。それで、友達に頼みたいって言ったら、良いよって言ってもらえたから……」
僕は美佳の手をゆっくりと振りほどいた。
良いよって言ったのはあの男か。そして僕はデザインのできる友達ってことなんだな。僕の気持ちも知らないで、残酷な女だ。
「座って」
僕は向かい側の席を指し、元いた席に身体を沈めた。
「で? 俺は何をすればいいわけ? 一応大体の見積もりは作ってきたけど」
テーブルの上にファイリングされた見積もり書を出した。
「……ありがとう。見せてもらうね」
紅茶を注文した美佳が真剣な顔で見積もり書をめくる。
「あー、要るものと要らないものがあればそれを教えてもらえるとありがたい。それに、希望するイメージも教えて」
美佳は見積もり書から顔を上げて言った。
「……跳び箱マシンガンズのジャケットみたいな感じ」
それは、僕が手掛けたインディーズバンドのCDで、バンド名とは裏腹に、メロウな音楽の詰まったアルバムだったから、黄味の強い背景に鉛筆で書いたような線でイラストを入れる感じのデザインだった。
「いいけど、そんなのを、このホテルの披露宴で招待客に配って大丈夫なのか?」
「ちょっと洗練された感じにして?」
「あれを洗練させるだって? 難しい注文だな」
僕は飲みかけたコーヒーを持つ手を止めて、笑った。
「ゼロ君ならできるでしょ? お願い」
手を合わせて美佳も笑う。
まだ美佳が僕といた頃のやり取りの様な空気が流れた。
なのに見た目は別の人みたいだな、こうして見ると。僕は美佳をまじまじと見つめた。でも本当はこっちの美佳が普段の彼女なのかもしれない。そう思うと寂しくなった。僕と肌を重ねていた彼女は誰だったんだろう。あれは美佳の本当の姿じゃなかったんだろうか。
「美佳……受託するに当たって、一つ条件がある」
「……何?」
「打ち合わせは俺の部屋ですること」
それが意味することは一つしかなかった。僕は美佳にお前を抱かせろ、と言っている。好きな女の結婚式の準備に駆り出されるんだ。それなりの対価はもらわないと納得が行かない。
僕を見た美佳の大きな瞳が揺れて、瞼を伏せた。
「それは……」
「無理? なら他当たって」
「そんな!」
僕は美佳の言葉を無視して日程を尋ねた。
「式はいつ?」
「……十一月二十日」
「じゃあもう七月頭だし招待状作らなきゃいけないな。今から帰ってデザイン案練らないと。原案できたらメールで送るから、アドレス教えて」
僕はメモを取り出し、ペンと一緒に美佳に差し出した。躊躇しながらも、美佳はメールアドレスを書いた。
「招待客の数も出しておいてくれ。手書きがいいって言うけど、三桁の人数なら宛先は印刷を勧めるよ。データがあるならこっちで印刷もできる。旦那と話して考えといて。あとこれ」
僕は新しく作った名刺を差し出した。
「それではよろしくお願い致します、若佐美佳さん」
僕は両手で名刺を差し出して名字の変わった美佳のフルネームを言いながら、営業用の笑顔を作ってニッコリと笑ってみせた。
最初のコメントを投稿しよう!