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キスでおしまい
その翌日、日曜日の夜。美佳は僕の身体の下にいた。
「おねがいゼロ君、今回だけにして……!」
半泣きでお願いしたって、その涙は気持ち良くて出てるんだって僕は知ってる。
「美佳が悪いんだろ? 寝てた男に結婚式のあれこれを頼むなんてことするから」
夫の名前はもちろん、招待客のデータから、美佳と婚約者の両親の名前、実家の住所まで、全部僕は知ることになるのに。そんなに僕のことを信用してるのか。馬鹿だよ、頭が良いから公務員になれたんじゃなかったのか?
僕の指が美佳が好きな場所を押さえて揺らすと、子供がすすり泣くみたいな声を漏らし始める。
「この声、旦那はもう聞いた?」
自分の手を噛みながら美佳は必死に首を横に振る。
「でも、もう寝ただろ? あんな深夜に二人でバーに来るくらいなんだから」
大きく開いた目から、何かが壊れたように涙が溢れ出す。
「いい身体してるじゃん、お前の旦那。あれは脱いだら相当だろ? やっぱ腹割れてんの?」
意地悪く僕は美佳の夫のことを話題にしながら、彼女の身体を愛した。どれだけ酷いことを言っても、僕の身体は美佳を欲していて、彼女の好きなやり方で触れ、動いた。
「ゼロ君……ぜろく……んっ」
もう何度イッたのかわからないくらい、また美佳の身体がふわりと跳ねる。
良かった、まだ僕の名前を呼んでくれてる。
これでトシアキだなんて夫の名を呼ばれたら、僕はお前を殺しそうだ。
汗で額や頬に張り付いた髪をよけて、美佳の顔がよく見えるようにした。
ああ、快楽に溺れ泣いてぐちゃぐちゃな顔がこんなに可愛いなんて。
僕の名をうわごとのように呼ぶ唇を塞いで、自分の名前を吸い込む。
先にお前のことを知ってて、先に抱いて、こんな風に声を上げさせるのはきっと僕だけなのに、後から来たアイツが、正式なお前の夫で、僕はもう間男なんだよな。
いや、最初から恋人ですらなかったんだ、僕の立場は美佳の中で少しも変わっちゃいない。
自虐的な気持ちで、一晩中美佳を抱いた。
それでも、こんな立場でも彼女に全く触れられないよりマシだ。
あと何回僕は美佳を抱けるのだろう。
いくつかデザイン案を出して、美佳が夫と選んだというものに決めた。
「じゃあこれで招待状を印刷してしまいますので、よろしくお願いいたします。数は以前伺った百十名分でよろしいですか?」
「はい、その数字で間違いありません。よろしくお願い致します」
仕事中も電話でやり取りをすることがあったが、あくまで仕事の要件のみで他に余計なことを話すことはない。向こうが昼休みの時間に連絡があることが多かった。
「では失礼致します」
電話を切ると、岡本さんが食後のコーヒーを飲みながら言った。
「百人超えか! えらく規模のでかい結婚式だな」
「予想していた人数の倍ですね」
「いいとこのボンボンでも結婚するのか?」
「そうみたいですねぇ。まあ僕には無縁の世界を覗かせてもらってます。飯買ってきます!」
「おう、いってら!」
僕は席を立ち、コンビニに走った。
美佳の夫は、商社マンだった。それだけならまあ公務員の美佳と釣り合ってるな、くらいなものだが、余りの招待客の多さに夫の名前をブラウザに打ち込んで調べてみた。
「若佐、俊明、っと……」
Facebookが出てきて、ざっと見ると、大学でラグビーをやっていたことがわかった。でもそれだけであんなに人数膨れるか? もう三十代の男がスポーツ人脈でそんなにたくさんの人を結婚式に呼ぶだろうか? 次に商社のWEBページに行った。取締役員の名前が並ぶ中に、若佐俊三、という名があった。常務取締役。それくらいで息子の結婚式がそんなに豪華になるのか? 社長と専務は若佐という苗字ではない。よくわからないな。まあいいか、と最後にご挨拶、という字をクリックした。
社長の挨拶の下に、会長の挨拶が載っていた。写真もあり、老境に入ってはいるがガッシリとした体躯と強い眼差しは大会社を背負ってきた人間の面構えだった。そっくりの顔と体格の人間を、僕は見たことがある。
「生き写しじゃんよ……」
会長の名前は、若佐俊徹。そうか、美佳の夫は、商社の会長の孫なのか。じゃあ納得だな。それなら、きっとこれでも招待する人数を減らしたに違いない。
コーヒーを飲んで、ふと思った。
美佳は、どうしてそんな男と結婚できるんだ……?
僕は美佳は公務員だ、ということしか知らない。職種も学生時代のことも、何も。
僕はもう一度Facebookに飛んで、三原美佳、とタイプした。
そこには、僕の知らない美佳の人生が広がっていた。親は大学教授、旧帝大を卒業して、公務員だと言っていた美佳の職場は、国立のシンクタンクだった。
「は、はは……」
ごく普通の家庭に生まれて、やけくそで勉強してそこそこの私大に滑り込んだのに、遊んでばかりで単位ギリギリで卒業、ろくに就職もせず遊んでいるのか働いているのかわからない暮らしを続けて、アンダーグラウンドな世界で生きてきた僕とは、全く違う世界に美佳は生きていたのだ。
だから、言い値でも全く構わず支払ってきたのか。そりゃそうだろう。彼らからしたら数万、数千円が違おうと大した事じゃない。なるほどね、口に糊するフリーランスライターにお情けで仕事をくれたって訳だ。
そうか、たこ焼きやピザの食べ比べみたいな遊びも、僕が暮らす薄暗い雑居ビルの部屋が好きだと言っていたのも、物珍しさからだったんだな。そして、僕みたいな生きる世界の違う男と寝ることも、彼女からすれば、社会科見学くらいのものだったんだ。
笑ってしまう。僕は愚かだ。身体の相性がいいからって、少しでも美佳に僕への気持ちがあるんじゃないかと思ってしまうなんて。
心の中で、何かがプツリと切れた音がした。
その後も打ち合わせと称して何度か美佳は僕の部屋に来た。
その度に抱いたけれど、気持ちがいいのに空しくて、もう意味のないことをやっている、という気持ちの方が強かった。
ゼロ君、と吐息で僕を呼ぶ声が、遠くで聞こえる。
「やっと最近美佳の性格がわかってきたよ」
「ええー、何それ、含みのある言い方~!」
ハハハ、と僕は笑ってみせた。
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