私はメイド

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翌日の昼前に迎えの車がやってきた。タイヤが地面を擦る音を聞いて、ご主人様は唇を噛んだ。 「すみません、遅くなってしまって。ご無沙汰しております。お元気でしたか」 協会の人が、玄関で出迎えたご主人様と私に挨拶をする。ご主人様はキッチンからお茶を持ってきて協会の人の座るテーブルに置いた。 「どうも、お構いなく」 協会の人は頭を下げて、私との生活のことや私の勤務態度について、ご主人様にいろいろと質問をした。ご主人様は私のことをたくさん誉めてくれた。よかった、と思った。ご主人様の役に立てた。心からのご主人様の賛辞が嬉しかった。 「あ、忘れないうちに、あれをお預かりしますね」 協会の人がご主人様に催促する。あれとは私のユニフォームのことだ。ご主人様は、ソファの傍らに置いてあった白いハーネスとオレンジ色のバッグを渡した。バッグには「盲導犬」と書かれている。外出する際はいつも身につけていた、私のユニフォーム。 協会の人が何かの確認作業をしている間、ご主人様は私を抱き寄せて背中をなでてくれた。私の頭の中に、ご主人様と歩いたすべての道が浮かぶ。職場の近くの桜並木。熱いアスファルト。銀杏のにおいのする公園。雪の積もった自宅の庭。鳥の鳴き声がする信号機。白い部分がかすれた横断歩道。雨の日の滑る階段。きつい登り坂。バスの運転手さん。八百屋のおじさん。食堂のおばさん。ご主人様の代わりに見た、いろいろなものや人も浮かんだ。 「ありがとう」 ご主人様は一言だけ私に告げた。それで十分だった。ご主人様の目から涙がこぼれる。その流れを止めようとして私は何度も頬を舐めた。涙はますますあふれ出た。やはり似ているな、と思った。初めて会ったときと同じように、ご主人様とパピーウォーカーをしてくれたお父さんの姿が重なった。 「はい、こちらは大丈夫です。では、そろそろ……」 協会の人がおずおずと声をかけてきた。ご主人様は最後に強く私を抱きしめた。私はご主人様の胸もとのにおいをかいだ。一生覚えていよう。そう決めた。 「リリー」 協会の人が私を呼び、車に乗せた。協会の人は小さな箱を抱えている。その中には私の宝物が入っている。ピンク色のボールや「L」のワッペンのついた赤いバンダナや私と同じ見た目をしたラブラドールレトリバーのぬいぐるみなどだ。私は車窓をのぞく。ご主人様は確かに私の方を向いていた。瞳には何も映らなくとも、心で私を見てくれているのだろう。そう思った。協会の人が窓を開けてご主人様に挨拶をする。車がゆっくりと動き出した。 私はまた、必要としてくれる他の人のもとへゆく。他の犬たちのような一生涯を通しての「ご主人様」が私にはいない。けれど、お手伝いをしたご主人様全員のことを覚えていよう。 車の窓から入ってくる風が、私の首もとで咲く白百合を優しく揺らした。
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