63人が本棚に入れています
本棚に追加
第3話
昨年、創業六十年を迎えた蘭咲興業株式会社。
鋼材を扱う小さな商社から始まった会社だが、今や産業機械を中心に建設機材や食品、木材なんかも取り扱っている総合商社となった。
国内外の支店やグループ会社も、いまだ数を増やしつつある。
「ちょっと聞きたいんだけど。服って普段、どこで買ってる?」
本社海外事業部の広いフロア内。
若手社員が振り返ると、上司の津ヶ谷が笑顔で立っていた。
世間話など今までほとんど交わした覚えのない課長からの唐突な質問に、若い社員はびくりと肩を震わせた。
「ふ、服ですかっ? えっと、自分は特にこだわりはなくて……その辺のショッピングモールとかネットとかで適当に」
「そうかぁ。俺も似たようなものだしなぁ。うーん」
「すみません、参考にならなくて」
「ああ、気にしないで。みんなそんな感じだよね」
「どうしたんですか、課長。おしゃれに目覚めて……あ! もしかして、彼女ができたんですかっ!?」
若手社員の横で課長直属の部下である女性社員が目尻をぎゅっと細める。
絵に描いたように邪推してくる部下に良典は苦笑した。
「いや、ただの好奇心だよ。家だと着たきり雀でね。若い子の意見でも参考に
しようかって。それよりさ――」
変な詮索をされても困るので、良典はしれっと別の話題を周りに提供した。
実際、彼女なんかできていない。
個人的には恋人ができるよりもとんでもない話になっていると思う。
こんなこと、誰に言っても信じてはくれないだろう。
良典は今、妖怪と暮らしている。
まるで存在を信じていなかった、人ならざる者。
その中でも超有名だと言ってもいいだろう座敷童子。
神や精霊とも伝えられる存在と、まさかの二人暮らしなのだ。
しかも、その座敷童子は子供の姿から急に成長してしまったらしく、良典と出会った時には、目をみはるような美青年だった。
艶めく濡羽色の髪に、内側から輝くような白磁の肌。
瞬きするごとに魅せられる長い睫に縁取られた漆黒の瞳。
愛らしく瑞々しい珊瑚色の唇。
体を構成する全てが美しいと言っても過言ではない彼、幸千代の家主になって、もうすぐ二ヶ月になる。
良典は若手社員に声をかけた時に頭をかすめていた悩みを再び手繰り寄せた。
一緒に生活を始めた時にシンプルな洋服を数着あげてから、幸千代はお気に入りだとそれらを着倒してくれている。
あまりにも嬉しそうに着続けるので、こだわりなく買ってしまったのを後悔して、もっときちんとしたものを買おうとしたのだが、幸千代に好きな服という概念がなかった。
洋服を身につけるようになって、テレビ等で芸能人の着ている服が気になるようになったとは言っていたが。
だから、実物を見て試着をしたりすれば、もっと感じ方も変わるだろうと若手社員にどんな店に行くのか聞いてみたのだ。
結局は自分と大差はなかったが、若者の助言通り近くのショッピングモールにでも一緒に行ってみようか。
服に限らず、色々なものを見て回るのも楽しいだろう。
周りには幸千代の姿が見えないので、下手をすれば自分が虚空に話しかける変人になってしまうが、その辺は意識すれば大丈夫だ。
ショッピングモールの中ではしゃぐ幸千代が目に浮かぶ。
思わず表情を緩ませてしまった良典に部下が微笑んだ。
「課長、最近生き生きしてますよね」
「……そう?」
確かに幸千代が家に来てから心持ちは大きく変わったが、そんなに表に出るほど分かりやすかっただろうか。
指摘されるなんてよっぽどだ。
恥ずかしい。
会社ではもっと気を引き締めよう。
そう思いつつ、幸千代の姿が引き続き脳裏をよぎる。
二人暮らしを始めて、良典は随分と楽をさせてもらえるようになった。
最初は拒んだものの、今や家事雑事は任せきりになっている。
幸千代は、とても頭がいい。
料理だって、瞬く間に上達して、もう良典よりもレパートリーは多い。
掃除や洗濯だってお手のもの。
教えたことはすぐに覚える彼は、連絡用に渡したスマートフォンも器用に使いこなしていた。
すっかり現代人だ。
彼が妖怪だなんて、どんどん実感できなくなっている。
神や精霊ともいわれる座敷童子に家事をさせて一緒に住むなんて、本当はいけないことなのかもしれない。
でも、幸千代の掃除が行き届いた部屋に帰り、おいしい手料理を食べて、アイロンがけが丁寧にされたシャツに身を通すのが嬉しくてしかたがない。
帰宅すれば、おかえりなさいと言われて。
おはようとおやすみを言えば、ちゃんと応えてくれる人がいる。
それがこんなに幸せだなんて。
若い頃は知らなかった。
「ですよねぇ。津ヶ谷課長、とってもごきげんですよねぇ」
「は?」
背後から突然、男に囁かれる。
「前より飲みの回数めっきり減っちゃいましたし?」
甘い声がねっとりと耳のあたりにまとわりついてくる。
同期で同じく課長をしている赤目だ。
入社当時からライバルで良い友人なのだが、無駄に色香をまとわせたような声だけは、昔から苦手だった。
「……お疲れ、赤目」
「お疲れ。付き合い悪くなったのは彼女でもできた?」
「そんなんじゃないって。赤目こそ、飲み歩いてばかりだと家族がいい気しないんじゃないのか?」
自分のデスクに戻ると、飲みかけのコーヒーを口に含んで、さり気なくポーカーフェイスを意識する。
変にボロを出して、からかわれるのは嫌だった。
「逆、逆。うちの奥さん、俺が家にいない方が楽だってオーラをぷんぷん振りまいてるから。娘だって話しかけても、ろくなリアクションが帰ってこないしな」
そういえば、赤目の娘はそろそろ思春期に突入するぐらいの年齢だったか。
「年頃の異性の子供ってそんなもんじゃないのか」
「まぁな。分かってるつもりだったけど、いざ嫌そうな顔をされると胸にくるよなぁ」
良典は小さく相槌を打ちながら、ほとんど残っていないコーヒーカップにしつこく口をつけた。
正直、人様の家庭の話が苦手だった。
段々と、どんな顔をして聞けばいいのか分からなくなってくる。
夫でも父でもない自分が家族の話に上辺だけ同調しても、知ったかぶりの軽薄さがぬぐえないし。
かといって、そんなの俺には関係ねぇし、なんてテキトーにやり過ごして流すには歳を取り過ぎている。
結果、大人しく話を聞くしかできないのが、どこか居心地が悪かった。
「奥さんもさぁ、昔は帰ったら玄関まで迎えに来てたっていうのに、今じゃどうにか挨拶が帰ってくるだけで」
赤目の在りし日の妻の話が、幸千代の姿に重なる。
毎日、愛らしい笑顔で玄関まで迎えに来てくれる座敷童子。
この先、赤目の妻のように、あの笑顔がなくなって玄関までの迎えがなくなるのだろうか。
う……うわ。
ダメだ。
生きている意味があるのかと思うぐらい、とんでもなく悲しくなった。
幸千代から乾いた挨拶ぐらしか帰ってこなくなるなんて信じたくない。
彼は家を豊かにする座敷童子なのだ。
人間のように数年で気持ちが移ろっていくことはないと思いたかった。
「そういえばさ。お前の課、派遣さんが来るんだっけ?」
赤目が少し声を潜めて言う。
「いや、うちの課は来ないよ」
「そっかぁ。俺の所は一人だけ来るんだけど、ちょっと微妙な気持ちになるよなぁ」
一昨年、赤目の前任課長がやらかした派遣社員に対するセクハラ問題で、このフロアは大騒ぎになった。
どうやらストーカーまがいのこともしていたようで、派遣会社を挟んでもめにもめた。
当時、そのセクハラ課長の補佐業務をしていた赤目のストレスは察して余りあるものだった。
挙句、逃げるように辞めていった男の尻拭いに奔走するはめになり――。
あの時の赤目が醸し出していた暗黒のオーラは忘れがたいものがある。
その記憶が半ばトラウマになっているからこそ、派遣社員というワードを聞いただけで心を濁らせているのだ。
「まぁ、あんなことはもう起こらないって」
「起こってたまるかっ」
「いい人が来て一緒に仕事をしはじめたら、また気持ちも新しくなるって」
「そうだけといいけどねぇ」
赤目がため息を吐く。
トラブルの渦中に巻き込まれた赤目の憔悴した姿を思い出した。
良典は、新しい派遣社員がどうか赤目と相性のいい人でありますようにと祈るしかできなかった。
○●○
「おかえりなさい。今日もお疲れ様でした」
久しぶりに定時上がりで帰宅すると、変わらぬ幸千代の微笑みに迎えられた。
「ただいま。こちらこそ……今日もありがとう」
「え?」
赤目の妻の話を思い出して、つい礼を言ってしまう。
「その、こうやって玄関まで来てもらえるのも、決して当然のことじゃないから感謝しないとなって」
家主の殊勝な態度に、幸千代はコロコロと笑い出した。
「そんなこと、気にしてらしたんですか」
「同僚の奥さんがさ、昔は玄関まで迎えにきてくれてたけど、今はどうにか挨拶が返ってくるだけになったって話を聞いてね。今こうして出迎えてもらえるのは、すごい有難いことなんだなって改めて実感したんだ」
「なるほど。そうだったんですね。有難いと思ってくださってるということは……私が出迎えると良典さんは嬉しいですか?」
「もちろん」
「なら、尚のこと感謝なんていいんですよ。私がしたいからしているんですから。それに良典さんが喜んでくださるなら、百年でも二百年でも続けますしね」
そっと寄り添ってくれる幸千代の言葉に、心が優しくくすぐられる。
「ありがとう、幸千代。でも、人間にしてはちょっと年数が長いかな」
「そうですか?」
二人で目を見合わせると、弾けるように笑った。
心の底から喜楽が湧いてくる。
それこそ、こんな日常が百年でも二百年でも続けばいいと思うほどに。
「お~い。家主が帰って来たのか?」
二人の間に流れる温かい空気を割るように、部屋の奥から知らない声がして、良典は目を見開いた。
酒焼けでもしているような、おっさんの濁声だ。
「誰か来てる?」
「あっ!」
幸千代が慌てて頭を下げた。
「良典さんの留守中に勝手をして申し訳ありません。せっかく訪ねて来てくれたのに、すぐに帰ってもらうのも悪い気がして」
「いいよ。友達?」
妖怪に友達と聞くのも変な気がしたが、幸千代は素直に頷いた。
「はい。昔からの付き合いで、前の家を出た時に身代わりを頼んだ相手です」
そういえば、出会った時に己の代わりを誰かに頼んだと言っていたか。
リビングに入ると、ソファに我物顔で寝転ぶ小さな人がいた。
「くらぼっこです」
「くら、ぼっこ……?」
当然妖怪なのだろうが、聞いた覚えのない名だ。
「座敷童子の親戚みてぇなもんだ」
良典の疑問を感じ取ったのか、小さな人がソファから起き上がりながら濁声で自身の説明を始めた。
何というか、幸千代よりは妖怪らしい風貌だ。
背丈は五歳児ぐらいだが、異様に長いこげ茶色の髪と髭が五年以上の月日を感じさせる。
血行の悪そうな樹皮みたいな肌に、目が合ったら石にでもなってしまいそうな緑色のどんぐり眼。
表現するなら、ダークサイドに堕ちた小柄な仙人といった雰囲気だ。
黒柿色の甚平を着ているようだが、長い髪でよく見えない。
ぎょろりとした目が良典をじっと見てくる。
「座敷童子は家につく。わしは倉につく。それぐらいの違いだな」
「あ、だから『くら』ぼっこ……」
「前の家を出た時に、急に何もいなくなるのは申し訳ないと思って、くらさんに頼んだんです。気配や幸運をもたらす力がほぼ同じなので」
「ちょうど、わしはどこにも居つかずにぶらついてたしな」
品定めするように、くらぼっこの視線が良典の体を上下する。
「まぁ……これからちょくちょく邪魔するぜ。よろしくな」
「こ、こちらこそ、よろしく……」
見知らぬ妖怪の登場に当惑している良典を置いて、くらぼっこは当たり前のように夕食の席についた。
それにしても、身代わりって。
初めて会った時に聞いてはいたが。
同じような存在だとしても、入れ代わるなんて随分と大胆だ。
皆、自分ほどはっきりと座敷童子たちの姿は見えはしないのだろうが。
愛らしい幼児がダークサイドに堕ちた仙人にチェンジしたら、もはや詐欺だと思う。
良典も食卓につくと、テーブルには中華料理が並んでいた。
麻婆豆腐に餃子、エビチリにわかめスープ、そして春雨サラダ。
これらが全てきちんと手作りなのだから恐れ入る。
アラフォーの胃には些か豪勢すぎる感はあるが、笑顔の幸千代の前には些細な問題だ。
「ほぉぉぉ。これ、全部おめぇが作ったのか。すげぇな!」
「良典さんが色々教えてくれて」
「いや、俺は大したことはしてないよ」
くらぼっこは心底感心すると髪の毛だが髭だかをかき分けて、ものすごい勢いで中華料理たちに食らいついた。
「くらさんっ! 私達の分がなくなっちゃいますよっ」
「うめぇから止まんねぇよ!」
幸千代の制止をふりきって、くらぼっこの爆食が続く。
見ていて気持ちいい食べっぷりだ。
「良典さん、早く食べましょうっ」
「そうだね。すごい勢いだから、つい見入ってたよ」
この調子なら、多めな夕食もほとんど残るまい。
ぷりっと大振りなエビを口に入れると、毎晩のことながら予想以上の美味しさだった。
「そうそう」
餃子を口に放り込みながら、くらぼっこの濁声が食卓に広がる。
「占いのあんちゃんに、わしが違う奴だってのは気付かれてるぜ」
幸千代の顔がわずかに強張った。
「……でも、くらさんがいてくれてるし。代替わりしたって思ってもらえば」
「いいのか?」
「何が?」
「何がじゃねぇよ!」
くらぼっこが頭をふって長い髪をばさりと乱した。
「おめぇ。あの家、気に入ってたじゃねぇか。体が成長しちまったからって、即おさらばで平気かっつってんだよ」
「平気だよ」
幸千代は即答した。
「今はここが……良典さんのお家が私の住処。仮に姿が戻ったとしても、もう戻りはしない」
「……本当にいいの?」
今度は良典が固い声で問いかけた。
口をはさむつもりはなかったのに、ふいに言葉がこぼれ落ちていた。
「幸千代は一つの家に長く住みたいって言ってたよね? 五十年もいたら思い入れも相当だろ? 本当に帰りたいのなら……信じてもらえるかは分からないけど、俺から事情を伝えるって手も」
幸千代が首を横にふった。
「確かに、前の家はとても居心地がよかったです。姿は見えずとも私に会いに来てくださる方もいて……。でも、良典さんと出会って色々変わったんです。目を見て話してくれて、一緒に穏やかな時間を過ごして、家事をお手伝いすれば感謝をしてもらえて……こんなこと、初めてで嬉しいんです」
白磁の美貌に、たおやかな笑顔が浮かんだ。
「前の家でもとても楽しい日々でした。でも、良典さんといると生きてるって感じがして……毎日が喜びでいっぱいなんです」
純真な言葉に、照れを通り越して羞恥がわいてくる。
「いや、そんな大げさな……」
「大げさではありません。私にとって、良典さんの側にいることは幸せなんです。だから、ずっとここにいたい……」
喜び、幸せ。
久しく自分の周りでは聞いていなかった言葉が、乾いた心の奥に染みていく。
長年、無意識に気付かないようにしていたのだと幸千代に気付かされる。
ずっと、自分自身を求められることに飢えていたのだ。
「……まぁ、おめぇがいいなら別にいいんだけどよ」
くらぼっこが春雨を噛みながら言う。
「もう、あの家はくらさんの住処ですよ」
幸千代は良典を見つめて、はっきりと言いきった。
「私の家はここ以外ありませんから」
最初のコメントを投稿しよう!