第5話

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第5話

クールビズが社内にとりいれられて、どれぐらい経つだろうか。 汗で湿ったシャツの胸元を引っ張って、そこにネクタイがないことで、ふと思った。 クールビズが推奨され始めたのはかなり前だろうが、良典がノーネクタイで夏場を過ごすようになったのはこの数年だ。 営業畑にいた時はネクタイなしなど考えられなかったし、海外事業部にきてからも社外の人間と会う機会が多い時は外す気にはなれなかった。 ネクタイなしで夏を過ごし始めた頃は、何だか胸の辺りが軽く感じて心もとない気がしていたものだ。 自分にとって社会人として気を引き締める、思いの外大事なアイテムだったのだろう。 今となっては、夏になれば何の感慨もなく外してしまっているのだが。 「おお。お疲れ!」 心地良く空調がきいた居間のドアを開けた途端に、馴染みの濁声が聞こえた。 「くらさん、今日は来てたんだね」 ダイニングテーブルに我物顔で座るくらぼっこが機嫌よく笑った。 「夕食が一人でさみしいってゆきの奴が言うからよ」 「言ってないよっ。そんなこと!」 今日は赤目と軽く飲んで帰るから夕食はいらないと伝えていた。 幸千代が家に来てからは、ほとんど夕食は自宅でとっている。 さみしいと感じたのは間違っていないだろう。 「今日はそうめんかぁ」 良典の視線の先。 くらぼっこが長い髪の間から、ちゅるちゅるとそうめんをすすっていた。 いかにも涼しげで美味しそうだ。 「良典さんも食べます?」 物欲しそうに見えたのか、幸千代が聞いてくる。 「……うん。食べようかな」 「散々食ってきたくせに」 「くらさんがおいしそうに食べるからさ、つい」 幸千代が用意してくれたつゆを受けとって、さっそく白い麺をつるりと吸うと、冷たい麺とつゆの味が口に広がった。 「やっぱ夏はそうめんだよな~。大学生の時、夏休み中ずっとそうめん食べて てさ。飽きはしなかったんだけど、栄養が偏るって怒られたよ」 薬味のみょうがに箸を伸ばしながら言うと、幸千代が小さく笑った。 「当然ですよ。若い男の子が夏場にそうめんばかりだとバテちゃいます」 「中年の今なら大丈夫?」 「もっとダメに決まってるじゃないですか」 テンポのいい軽口に、二人して笑みが浮かぶ。 「随分と仲良くなったもんだよなぁ」 和やかな雰囲気の家主と座敷童子に、くらぼっこがしみじみと言う。 「ゆきがデカくなった時にはどうなることかと思ったが、なんだかんだ上手くいってよかったよ」 「くらさんにはすごく心配かけたもんね。感謝してるよ」 「そうだぞ、おめぇ! この借りは飯ぐらいじゃ足りねぇからな!」 ずぞぞと最後のそうめんがくらぼっこの髭の間に消えていく。  「最初は戻った方がいいんじゃねぇかと思って、色んな奴に聞いて回ってたんだぞ。ゆきが急にデカくなった原因」 「え? そこまでしてくれてたの? 何だか申し訳ないなぁ。それで、何か分かったの?」 「いや、何も。そもそも、わしらの容姿って人間ほどはっきりしたもんじゃ ねぇからな。己の心の持ちようで何とでもなるってぇの?」 「じゃあ、くらさんも容姿が変わったりするんだ」 軽く瞠目しながら良典が言う。 「それはねぇよ! わしがこれ以上イケメンになったら大事だろぉが」 がははとくらぼっこが豪快に笑った。 確かに、イケメンになったくらぼっこはいまいち想像できない。 「すると、幸千代の成長は心因性ってこと?」 「そうだな」 「私の心……」 二人の視線を受け止めて、幸千代は思案に沈んだ。 「……ずっと、羨ましいとは思っていましたけど……」 「羨ましい?」 幸千代はゆっくり頷くと、言葉を続けた。 「前の家で……沢山の悩める人の声を聞いていました。様々な理由で心を曇らせている方に、前の家主は確かな占いの力でいつだって優しく寄り添っていました。私も少しでも役に立とうと思って、来てくださる方々に幸福があるようにと願っていました。なので、お礼の手紙をいただいたりすると、とても嬉しくて。みなさん……あらゆる経験を胸に、時には挫折しながらも人生を歩んでおられました。そういった姿を眺めている内に、段々と皆さんが羨ましく感じていきました。私も沢山の経験をしてみたい、成長してみたいって……」 「その思いが体の成長に繋がったってことか……」 「心の問題だと言われるのなら、それしかないと思います」 「つっても、おめぇは精神的に成長してみてぇって思ってたんだろ? 体が大人になってどうすんだよ」 「そうだけど……。どこかで無邪気な子供姿も終わりにしたいって思ってたのかも」 「うーん。なるほど」 良典は軽く腕を組んで話を聞きながら、気まずそうな顔をした。 「それが理由なら、うちだと申し訳ないね」 「え? どうしてですかっ?」 「いや、だってうちだと沢山の経験、成長を感じられるようなドラマチックなことなんて全く起きないし、ずっと家事してもらってばかりの日々だし」 地味なことの繰り返しだ。 改めて、座敷童子にしてもらうようなことではないと強く思う。 しかし、幸千代は大きく否定した。 「違いますっ。私はとても充実した日々を送っています。家事も上達していくのが嬉しくて。良典さんと二人で暮らせて、とても楽しいです! ずっとそう言ってるじゃないですか!」 「そう?」 「そうですっ」 あまりに真剣な眼差しを受け止めきれずに良典は視線を外して苦笑した。 「幸千代には俺が色々と与えてもらってばかりだなと思ってるから、つい引け目に感じてしまってね」 「わ、私こそ、良典さんには沢山もらってばかりですからっ」 「けっ!」 はにかみながら互いに見つめ合う二人に、くらぼっこは思いきり顔をしかめた。 「二人の世界に入ってんじゃねぇよ!! そうめん、おかわりだ!! 薬味もたっぷりと追加してくれよ!!」 「ちょっとくらさん、声が大きいよ」 「知るかよっ。デレデレしてるおめぇらが悪ぃんだよ!」 喚くくらぼっこに幸千代は慌てて追加のそうめんを準備するのだった。 ○●○ 「ねぇ。本当に私たち、これで終わりなの?」 見慣れた彼女の目から涙が絶えずこぼれている。 今までなら、ためらうことなくその涙をぬぐっていた。 しかし、今はただ流れる滴を見るだけだ。 そう決めたのは自分自身だった。 彼女への情がなくなったわけではない。 ただ、仕事に夢中になりたいのに、恋人の存在が、暗に寄せられる未来への期待が、それを邪魔する。 先週、子会社への出向の辞令が下り、大きなプロジェクトへの参加が正式に決定した。 これを成功させれば、社内の己の評価は大きく上がる。 恋愛なんてしている暇はないし、結婚なんてまだしたくはなかった。 彼女は会えなくてもいいから待っていると言ってくれた。 そんなに想ってもらえるなんて、一人の男として幸せなはずなのに。 わずらわしいと思う自分が心底嫌で。 早く別れて、余計な自己嫌悪から逃れたかった。 だから、別れたくないと泣き続ける彼女から強引に去ったのだ。 それが彼女、新田恭子との最後の記憶で、もう会うことなど二度とないと思っていた。 いや、思っていたかったのだ。 「今日からうちの課で働いてもらう新田さんです」 「え……?」 赤目の部下から新しい派遣社員の紹介を受けた良典は、呆然と目の前の元恋人を見つめた。 相手も同様に言葉を失っている。 それはそうだ。 かつての恋人との、十五年ぶりの予期せぬ再会だったのだから。 「お知り合いですか?」 「あ、ああ。だ、大学が同じで……」 「すごい偶然ですね!」 「そ、そうだね……」 彼女を見る。 驚きに強張っている顔は十五年もの月日を経ているとは思えないほど記憶のままだった。 「は、はい……びっくりしました」 慌てて表情を戻した彼女が丁寧にあいさつをしてくる。 それに応えて、フロア内で挨拶周りを続ける彼女の背中を見送った。 目の前の現実が信じられない。 己のデスクに座る良典はパソコンの画面に集中するふりをして騒ぐ胸を懸命に宥めようとした。 まさか、彼女が赤目の課に配属された派遣社員としてここにやってくるなんて。 こんな偶然があるだろうか。 長い間、彼女と別れた身勝手を後悔していた。 歳を重ねるごとに、ぬぐわなかった彼女の涙を思い出したりもしていたのだ。 我が家に幸千代が来る日までは。 本当に現金なものだが、幸千代との生活が始まってからは、それまでが嘘のように思い返すこともなくなっていた。 もし、幸千代に出会っていなかったら、運命の再会だなんて思ってしまったかもしれない。 彼女の十五年前と変わらぬ苗字に期待を膨らませていただろう。 そんな格好悪い想いに捕らわれずに、本当によかった。 心の底からため息を吐いた時。 ポケットの中でスマートフォンが震えた。 取り出すと画像が届いていた。 考えていたそばから幸千代だ。 可愛いハチワレ猫の写真。散歩の途中で見つけた野良猫のようだった。 胸に、いつもの幸せが流れ込んでくる。 可愛いねと短く返事を打って、静かに深呼吸をした。 まだ心臓のあたりがぞわぞわする。 ダメだ。気分を変えよう。 心から衝撃を追い出そうと席を立って、自販機で迷いなくブラックコーヒーを選んでボタンを押した。 「ヨ……津ヶ谷課長」 本気(マジ)か。 今、一番聞きたくなかった声が背後からして、良典は肩を強張らせた。 このタイミングで話しかけてくるのか。 かつての恋人の積極性を前に、脱兎のごとく逃げ出したくなるのをぐっと堪えた。 「お疲れ様です。新田さん」 振り返りながら固い声を出して、早く会話を終わらせくれと暗にアピールする。 せめて心から完全に驚きが去ってからにして欲しかった。 「お疲れ様です……。あの、久しぶりね」 「うん……」 テレパシーに近いアピールは無駄だったようだ。 軽くしゃがんで自販機から缶を取り出す。 何となく周りが気になって顔を巡らせた。 他の社員ではない。 幸千代だ。 万が一にもここに来ていて、今の状況を見られていたらと思うと背筋が凍る。 自宅近くで撮った猫の画像を送ってきていたので、その可能性はないとは思うが、胸がそわついて落ち着かなかった。 「――よね」 「え?」 心ここにあらずで、声を聞き逃してしまった。 「まさか、ここで会うなんて思ってなくて。職場の名前、ちゃんと聞いていたのにね」 「十五年も経ってるからね。普通忘れるよ」 「そうかな……。ヨシくんは今頃どうしてるかなってずっと思ってたよ」 「…………」 自分も少し前までは同じように思っていた、なんて口が裂けても言えない。 「別れてから三年後ぐらいにね、結婚したの。子供も一人産まれたんだけど、夫婦仲がどうも上手くいかなくて離婚しちゃった」 「じゃあ、今は一人でお子さんを?」 「恥ずかしながら実家暮らしで、両親に協力してもらってるの」 「そう。俺はあのまま変わらず仕事一筋。気付いたら十五年経ってた」 今は仕事と幸千代の二筋か。 「すごいよ。この年で課長さんって出世頭なんでしょ? 赤目課長が言ってたよ」 「あいつは……。派遣さんの初日に何言ってんだ」 「気さくな人よね。少し安心した」 「あー。仕事はしやすいと思うよ。俺よりね」 「津ヶ谷課長とは仕事がしにくいの?」 彼女が十五年前と変わらぬ笑顔を見せた。 記憶の底から懐かしさがこみ上げてきたと同時に、幸千代に対しての罪悪感が胸に広がる。 これでは浮気している旦那のような心境ではないか。 とにかく、他の社員の目もある。 良典は一歩引いて体の向きを変えた。 「自販機の前で長々とごめんね。それじゃ」 「こちらこそ、ごめんなさい。つい話しかけちゃって」 軽く手を振って、気持ち足早にデスクに戻る。 何でもない。 良典は心の中で何度も唱えた。 ただ十五年前の元恋人と同じ職場になっただけ。 ただ、それだけだ。 「お帰りなさい! お疲れ様です」 今日も幸千代の微笑みに迎えられる。 「た、ただいま」 何気ない笑みを受けとりづらくて、つい目を逸らしてしまいそうになるが、これでは本当に浮気した旦那ではないかと、まっすぐに漆黒の瞳を見つめ返した。 「今晩はカレイ?」 玄関まで煮つけの匂いがただよってきている。 「そうです! 日曜日にお買い得だったやつですよ」 買い物は二人で行って、休日にまとめ買いをしている。 メニューは幸千代におまかせだ。 「楽しみだな。すぐに食べるよ」 手を洗おうと洗面台に立つ。 鏡の中の顔が強張っていて、思わず声を出してつっこみたくなった。 全然、動揺を隠せてないじゃないか。 ついでに軽く顔も洗って、夕食の席についた。 「……どうですか?」 カレイを一口食べた良典に、幸千代がおずおずと聞いてくる。 「おいしいよ。ちょうどいい味付けだね」 「よかったです」 嬉しそうにした幸千代だが、すぐに表情を固くした。 「あの……良典さんの昔の恋人は料理上手だったんですか?」 「……はっ、え!?」 あまりにタイムリーな質問に、左手に持った茶碗を取り落しそうになった。 「なんで……?」 「良典さんはいつも私の手料理を褒めてくださいますけど、昔の恋人にもそうだったのかなって……。だったら、嫌だなって。ごめんなさい。つまらない嫉妬です……」 白皙の美貌が気まずそうに瞼を伏せた。 一瞬、また会社に来ていたのかと思ってしまった。 「……昔の恋人の手料理はほとんど食べたことはないよ。たまに手作りお菓子をもらってたくらいかな。どちらにしろ、味なんてほとんど覚えてない。だから、嫉妬なんて必要ないよ。ほら、おいしい」 大仰な仕草でカレイを口に入れると、幸千代が礼を言いながら頬を緩ませた。 昔の恋人に嫉妬するなんて。 初めてまともに交流できた家主が良典なのだから、特別な存在になっているのだろう。 会社にも突撃してきたり、少々過激な部分はあるが、初めて会話できる人間に出会って、感情が高ぶっているのかもしれない。 もちろん、幸千代は自分にとっても大切な存在だ。 けれど、それとは別に、彼の楚々とした色気にあてられて、妙な気持ちになる時がある。 座敷童子に浮ついた気持ちになるなんて、ご法度なのではないだろうか。 信頼を裏切らない為にも、変態おやじにだけはならないようにせねばと良典は密やかに気を引き締めた。 「そうだ。次の休みにスポーツショップに行かない? ジャージとか買い足そうよ」 「え? また買ってもらっていいんですか?」 「うん。運動好きみたいだから、色々一緒に行けるなって。スポーツウェアも ハマると用途やメーカーでめちゃくちゃ種類があるから、つい買っちゃうんだよなぁ。一通り見るだけでも楽しいと思うから、大きい店舗に行こう」 「嬉しいです……!!」 幸千代を見ていると、元恋人との再会で動揺していたのがどうでもよくなっていく。 座敷童子のおかげで、彼女と別れた後悔だとか日常の寂しさから卒業できたのだ。 本人が現れたからといって、これ以上気持ちの乱れを引きずるのは馬鹿らしい。 「よし。似合うもの、沢山買おうな!」 気持ちを切り替えて、良典は楽しげな表情で夕飯を終えたのだった。 ○●○ 「わぁ~。本当に広いですね。この中、全部スポーツ用品なんですか?」 「そうそう。服を中心に各種スポーツ、キャンプ用品までカバーしてて……って、思えばすごいよなぁ」 日曜日の夕暮れ時。 客足がまばらになっただろう頃を狙ってやってきた大型スポーツショップ。 広々とした店舗にずらりと並んだスポーツウェアやらアウトドア用品に、幸千代は目をみはった。 「全部見るには一日では足りそうにないですね。あっ! あれは濡らすとずっと冷たいタオル! ネットで見かけて気になっていました」 駆けていく幸千代の後を追う。 思った通り、人は少ない。 これなら、普通に話してもいいだろう。 「好きなもの、何でも買っていいよ。スマホで色々見てたよね? ほら、あの辺が欲しいって言ってたメーカーじゃない?」 「え、いやっ。ダメですよっ! そんな大盤振る舞いは!」 慌てる幸千代が可愛くて、良典はつい表情を緩めてしまう。 ただの買い物がこんなに楽しい。 座敷童子はやはり福の神であるのだと思う。 「あれもこれもって私が強欲に買ってしまったらどうするんですか? 良典さん、破産しちゃいますよ」 「いいよ。座敷童子に貢いで破産って素敵じゃない?」 「どこがですかっ」 一見して近寄りがたいほどの美貌がコロコロと表情を変える。 キラキラ輝くきれいな人。 まるで宝箱の中で一等きれいな宝石のようだ。 「良典さん? どうかしました?」 「幸千代が家に来てくれて本当に嬉しいなって」 「そんなの、私の方こそ感謝しかないんですからっ。言葉では言い尽くせないぐらい……!」 「そうなの?」 幸千代が何度も大きく頷く。 「じゃあ、その感謝の気持ちをこの買い物につぶけて沢山買ってね」 「だから、何でそうなるんですか!」 「まずはジャージを見ようか。人が少ないから試着もできるよ。行こう」 手を引けば、良典の名を呼びながら嬉しそうについてくる。 一着でいいという幸千代を無視して、何やかんやと買い物かごに入れていき、いくつか袖を通して評論していると、随分と時間が過ぎていた。 「それも似合ってる。迷うね。どっちも買う?」 「こ、こっちでいいです!」 試着室のドアを閉めてモゴモゴと礼と文句を言っている座敷童子に、良典は小さく笑った。 続けて声をかけようとしたのだが、近くに人の気配を感じて慌てて口をつぐんだ。 それだけで済むはずだったのだが、近づいてきた人の意識がこちらに向いているのを感じて振り返る。 「ヨシくん……?」 「え……」 温かかった胸の奥が急速に冷たくなった。 何故なんだ。 どうしてなんだ。 神はいないのかと膝をつきたくなる。 最悪な偶然だ。 「こ、こんばんは……」 まだ着替えているだろう幸千代に聞こえないように、そっと挨拶をする。 連れがいると思われないように、さり気なく試着室から離れた。 「こんな所で会うとは思わなかった。今日は息子と一緒に来てるの」 視線を巡らせば、近くに小学校高学年ぐらいの少年が立っていた。 職場の上司兼ちょっとした知人の顔をして愛想よく挨拶をするが、良典の全神経は背後の試着室に注がれていた。 物音一つしないが、もう出てきているだろうか。 振り返って確認したいが、不自然に思われたくはない。 「スポーツ、何かしてるの?」 買い物かごに入った大量のスポーツウェアを見ながら彼女が言う。 「いや、趣味でウォーキングぐらいかな。今日はまとめ買いしたくてさ」 早く早く。 終わらせないと、後ろが怖い。 これぐらいの世間話で彼女が元恋人だとバレることはないだろうが、嫉妬深い座敷童子はどこで感情の起爆スイッチが入るか分からない。 ――それではまた職場で――。 このフレーズを一秒でも早く口に出そうと内心躍起になっていると、背後で大きな物音がした。 目を見開いて表情を固くする彼女に嫌な予感がして振り返る。 そこには拗ねた顔をして試着室のドアを開け閉めしている座敷童子がいた。 「うわっ……!」 思わず声が出る。 良典からすればただのイタズラに見えるが、他の人間からすれば、それどころではない。 誰もいないのに、勝手にドアが動いているのだ。 恐怖のポルターガイストに他ならない。 幸千代ぉぉぉぉぉ!!!! 何してくれてんだよっ!!!! 大声を出して止めたいのを必死でこらえる。 「ヨシくん……あれ……」 声を震わせて顔色を失くしている元恋人に良典は冷汗をかく。 話をしている間に、息子はどこかに行ってくれていたのは不幸中の幸いだった。 「様子がおかしいから急いで帰った方がいいね……。息子さんはその辺にいるかな」 「そうね……っ」 怖がっているふりをして促せば、彼女は息子の元へと駆けていった。 「幸千代っ! 何してるんだ!」 周囲に人がいないのを確認して、座敷童子に詰め寄る。 強く腕をつかむと、幸千代は拗ねた顔のまま視線を下げた。 そのまま腕を引いて店舗の端の方へと移動する。 トレッキングシューズ売り場で手を離すと、無言のままの幸千代に向き直る。 「やりすぎだって自分で分かってるだろ? 俺が職場の人と話してたのが気に食わないぐらいであんなことしてっ」 「ち、違いますっ。普通に職場の方だったら、私は何もしていません……!」 潤んだ漆黒の瞳が良典を見上げてくる。 「今の人……良典さんの昔の恋人でしょう?」 「え……?」 どうして分かったのか。 瞠目する良典を前に、幸千代は言葉を重ねる。 「見れば分かります……。彼女のあの目……良典さんに特別な人への視線を向けていました」 「いや、そんなことは――」 「でも、元恋人は事実じゃないですか?」 「ま、まぁ、その通りだけど……でも、あんな怪奇現象みたいなことをしていい理由にはならないからな!」 「……それは……ごめんなさい……。二人が話している所をあれ以上見たくなくて……」 「世間話をしてただけだよ。息子さんが一緒にいたしね」 「それでも、です。あの……前に、昔の恋人とは別れてから会ってないって言ってましたよね……?」 そんなことを言っていたか。 「嘘じゃないよ。先週から彼女がうちの職場で働き始めてね。俺も驚いたんだ。それまでは十五年間、一度も会ってなかったから。ちゃんと話しておけばよかったね。課が違うから関わることもないし、幸千代に話すまでもないかなって。ごめん」 幸千代は謝罪は不要だと言ったが、表情は全く納得していなかった。 「家に住みついている妖怪ふぜいに、細かく話す必要はないですもんね」 座敷童子は可愛らしい唇をとがらせている。 完全に機嫌を損ねてしまった。 「そんな風に俺が思ってないのは分かってるよね? もう家族同然なんだから。今回のことは話してなくて本当に悪かった。この先、職場で俺から彼女に接触することは全くないから。ね? 信じて」 漆黒の瞳が驚くほどに鋭い視線を向けてくる。 これでは浮気を疑われている夫そのものではないか。 「……彼女からの接触は拒まないということですか」 「話しかけられたら対応はするよ。同じ会社に勤める者としてね。それ以上でもそれ以下でもない」 「でも、彼女がその気になったら……」 「ないと思うけど、そんな流れになってもちゃんと断るから。絶対」 「じゃあ……」 幸千代がおずおずと小指を出してくる。 「約束、してくれますか?」 再びの指きりだ。 良典は思わず笑ってしまった。 大和撫子のような振る舞いをするかと思いきや、とんでもない行動力で感情を露わにしてきたりする。 振り回されていると思う。 でも、そんな日常が愛しいと感じてしまう。 もっと座敷童子に振り回されたいとまで考えてしまうのはいきすぎだろうか。 スポーツショップの片隅で、小指を絡める。 腕をゆさぶると、幸千代は楽しそうな声を出した。 とりあえず、機嫌はなおったようだった。 良典は安堵に胸を撫で下ろした。 「嘘ついたら、くらさんの髪の毛千本ですからね!」 「それは嫌だな。なにがなんでも約束を守らないと」 「絶対ですよ」 きれいな人が無邪気に笑う。 ああ、そうだ。 仕事よりも自分よりも何よりも。 今、一番大事なのは幸千代が幸せであるかどうかだ。 十五年前のあの若い日。 仕事にがむしゃらにしがみついていた日々には決して芽生えなかった気持ちがしっかりと心に根ざしたのを良典は感じたのだった。
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