朱鷺色の翼

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 白い大輪の花が、今にも零れそうだ。  永代橋(えいたいばし)の中ほどで、女性が身に纏う芙蓉の帯に目を止めたあとりは、手習いの道具を手にふと足を止めた。あとりの視線に気づいたのか、ちらりと振り返った女性は、紅を刷いた唇でにっと笑うと、隣の男性にしどけなくしな垂れる。藍染めの薄物に芙蓉の帯、髪型は粋だと評されるつぶし島田。おそらく、富岡八幡宮の門前に立ち並ぶ岡場所・辰巳(たつみ)の芸者だろう。そう言えば、今夜は二十六待夜だ。芙蓉の芸者は、これから馴染みと二人で月見舟と洒落込むのだろうか。  大川に沈む夕陽を背に、帰路を急ぐ。あとりが兄と暮らす長屋は、大川にかかる二つの橋、永代橋と新大橋の中ほどに位置する東永代町にあった。差配人・由兵衛(ゆへえ)の名をとって、由兵衛長屋と呼ばれている。差配人とは、貸地や貸家を地主や名主に代わって執り行い、店子を統括する役目を負うので、世の酸いも甘いも舐め切った年長者が多い。由兵衛も例に漏れず、還暦をとうに超えた白髪頭の老爺だが、威厳が黒羽織りを纏ったような押し出しの良い体躯をしている。長屋の修繕の日などは、指示を飛ばすしんばり棒を放り投げて、自らが率先して屋根に上りたがる。後二十年は達者で暮らしそうな御老人だ。  その差配人が今、住まいの前でうろうろと困り果てている。傍には、由兵衛長屋の店子(たなこ)である大工の夫婦もいた。
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