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「この沖合あたりで。そう、今日の昼。いやもっと早い、朝かな、午前中だ。明け方からこの砂浜の沖でヒラメを釣ってたんだ。今食べているやつ。暗いうちから舟を出して。ある程度釣れたから、もう今日の仕事はいいやと思って、帰ろうかなと思ったら、突然すごい勢いで糸がひっぱられた。ほんの一秒、いや半呼吸ほどしか無かったかな、その一瞬で十メートルくらい糸が出されてしまった。聞いた事の無い、高い叫び声の様な音でドラグが鳴った。ギャーン、みたいな」 「それ怖くない?」  ウィローが言った。  ジョナさんはうなずいて、話を続けた。 「糸に触れていた指先を反射的に離したけど、それでもわずかに当たった部分が熱くて、摩擦で指が焼けたかと思ったよ。  糸はそのままプツンっと切れてしまった。一瞬の事で呆然としたよ」 「それがサメだったの?」  ウィローは結論を聞きたがった。 「それはどっちかわからないんだけど、その後すぐカヤックが大きな波で揺れて。その波は水中から押し上げられたみたいだったんだ。  すぐにゴーグルをかけて、海中に頭を突っ込んでみたら、普通じゃない数の黒い影がこのカヤックの下を泳いでいた」 「それがサメ?群れって怖いわ」 「そうなんだけど、それだけじゃなくて。その影はマオナガだった。大きい、六メートルくらいだったかな、胴が三メートル、尾が三メートルと少しくらいはあったと思う、優雅なようでもあるし、邪悪な感じもするサメだよ。見た事あるかい?」  僕とウィローは首を横に振った。  僕は漁師なのに、マオナガという種類のサメを知らなかった。 「マオナガって、胴体は他のサメ、ヨシキリザメなんかとよく似てて、目だけが体に対して少し大きいんだ。目にはなんか意思みたいなのが無いから冷酷な感じがする。しっぽの上半分が胴体と同じくらいの長さがあって鋭く尖ったような尾が、ゆっくりと揺れていてきれいな感じだけどなんか怖い。  あれきっと、深い海の底の向こうにある悪魔の世界から遣わされた凶悪な使いか何かだ。  実際、普段はもっと深い所にいるんだ。こんな岸に近い浅い場所にはいないと思ってた。  水深が十メートルちょっとしか無い狭い空間だ、海の中がサメで埋め尽くされているように思えたよ」 「そんなのが群れてやって来たの?」  ウィローは眉をしかめた。  ウィローはよく眉をしかめた。 「そうなんだ。普段は見ることも無い珍しい上に、六匹もいたら相当稀なんだけど。それが数十匹も群れてやってきたんだ。」 「ジョナさんは噛まれたの?」  ウィローは質問をした。 「噛まれていない。ウィロー、俺が話しているサメはそれじゃないんだ」  僕とウィローは、話の続きを待った。 「マオナガだけなら別にたいした事は無いんだけど、黒いシルエットの大群が横切って行くのを見てたら、いつの間にかそのシルエットが違ってたんだ。  群れの後ろ半分はハンマーヘッドだった。  別の種類のサメが一緒に群れているなんて珍しいからなんか嫌な予感するなあなんて思った。  それもまるで隊列を編成したように、なにかに付き従っているみたいに泳いでいるんだ。  しばらくの間、その隊列をぼうっと眺めていた。海の悪魔達の行進みたいな」 「嫌な予感」  ウィローは感想を言った。  ジョナさんは、少し休憩するようにシロギスの塩焼きの串を取って食べた。  僕とウィローも、同じものを食べた。  焚き火がパチパチと音を立てていた。 「それでやがてサメの群れが通り過ぎたんだけど、結構な時間がかかったので一旦海中から顔を上げて、息継ぎをしてもう一度すぐに海の中を覗いたんだ。そしたら群れはぐるっと半円を描きながらこちらに戻ってきた。その時、群れの先頭の一匹が見えたんだ」  ジョナさんは一口水を飲んだ。 「それは薄くて青い目をしていた。体は真っ黒に見えたけど水中だからはっきりとは分からない。大きさは多分二十メートル以上はあったと思う、ジンベエザメが仮にこの海にいたらあんな風に見えるんじゃないかな。  水深十メートルの海に、二十メートル以上の生物、もう怪物だよ。深い青の中を薄い青の二つの光と巨大な黒いシルエットが壁みたいに迫ってくるんだ。その背後には無数の危険なサメが付き従っている。  メガロドンはあんなだったのかななんて思った。遠い昔に絶滅したでかいサメさ。シーラカンスみたいに実は生きてた、なんてね」  メガロドン、恐竜みたいな名前だと思った。 「シーラカンスもメガロドンも名前の響きが恐竜みたいね」  ウィローがそう言った。  口を開けて両手の平を頬に当てていた。 「魚の恐竜みたいなのが来たんだ、戻ってきたって事はジョナさんの舟を目指してきたの?私だったら逃げちゃう絶対」 「うん、魚の恐竜じゃないけど、そんな名前のでかいサメがいたっていう話、とにかくそいつは俺に気づいた、って感じで戻って来た様に見えたんだ。マオナガやハンマーヘッドの群れを見たのとは比べ物にならないくらいの緊張と危機感を感じたよ。これで俺は終わりかもしれないと真剣に思ったな。本気で死ぬかもしれないと思うって、死を覚悟するのと割と近い心境なんだ、そんなときは頭の中で考えた事を文章にできない。あ、くらいだった、その瞬間、言葉になったのは。  続けて頭に浮かんだ事は、逃げる方法。オールを漕ぐべきかどうか。メジロとかホオジロみたいな強力なサメが水面や水中の人間を襲う時、泳いで逃げるバタ足する人間をアザラシと勘違いして攻撃してくるらしいんだ。  やつの様に巨大な体格なら、カヤック程度の大きさの舟だったら餌と思うかもしれない。危険な状況での頭の回転は、ショックの後は一転して早送りになるみたいだ」  僕は何も言えずに、ただジョナさんの話を聞いていた。  ウィローも黙って聞いていた。 「でもやっぱりオールを漕ぐ事にした。ゴーグルを外してすぐにオールのグリップを掴んで漕ぎ出したんだけど、魚と全然速さが違う、やつらは速度を上げてるわけではないけどサメの方が断然速い。  すっと、黒く大きすぎる影がおれのカヤックの下に近づいたと同時に、その周りの海面が一メートル以上も凹んだんだ」 「なにそれどういうこと?」  ウィローは言った。
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