大人の恋にはほど遠い。

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「結局はこうなるのよ」 「結局はそうだよな」 「私このままだと報われない」 「俺も報われてえよ」 そして二人は同時にため息をついた。 職場最寄りの駅前にあるハンバーガーショップ。 たぶん日本国民の大半が、ハンバーガーショップといえばここだと思い描くチェーン店。 鷹見香夜はチーズバーガーのセット、ドリンクはアイスカフェラテ。 結城将司はテリヤキバーガーセットにダブルバーガーを追加、ドリンクはコーラ。 高校生の放課後デートのようだが、二人とも27歳の会社員だ。 そしてただの同期で同僚。 LINEは知っているが、一度だけ確認のためのスタンプを送り合って以降沈黙した。 お互いの名前はトーク画面のはるかはるか下の方にある。 仲は良くも悪くもない。 仕事で必要な時には話すし、最近はないけども、飲み会などで隣になればそれなりに世間話もした。 今日も、ため息の原因が同じという理由で、仕事終わりに二人で食事でもしながら話そうということになっただけ。 だが現在、世間は緊急事態宣言の最中。 駅周辺は、20時に閉まる店だらけ。 酒を飲むのも憚られるご時世。 別に格好つける間柄でもない。 もうハンバーガーでいいじゃないか、ということになった。 アクリルで仕切られたカウンターに並んで座る。 少し声が遠いが問題ない。 お互いに話したいというよりも、壁に向かって愚痴を言うのをお互いに聞いているという状態が近い。 どちらも一方通行、たまに相槌。 愚痴とため息の原因は、二人の同期から受けた結婚報告。 人当たりが良く見た目も良く女性社員に人気のあった金子が、後輩の秋奈と職場恋愛経由の結婚。 さらに秋奈の寿退社が決まったという。 感染症予防の観点から、式や披露宴はなく、すでに同居を始めている。 秋奈は新入社員への引き継ぎをして退職。 2年に及ぶ職場恋愛にまったく気がついていなかった鷹見と、秋奈にほんのり好意を持っていた結城は、その場ではおめでとうと大人の対応をしたが、主役が仲睦まじく去っていった後、顔を見合わせて同時に同じ言葉を口にした。 「どういうこと?」 と。 2年間も職場恋愛していて、それを隠し通したのはすごい。 すごいがなんだか納得いかない。 秋奈が退職するのは、金子のサポートに専念するためというのも納得いかない。 どちらかと言えば、他の女性社員のやっかみから逃げるためだろう。 そんな理由で辞めなければいけないのも納得いかない。 つまり、全部納得いかない。 「ねぇ結局は家庭的な女がいいの?私、金子くんの元カノ知ってるけど、いかにもモテ系の可愛い子だったよ?それがいざ結婚したのが秋奈って、真面目で家庭的な秋奈を、散々女遊びしたあとに掻っ攫うってそんなのもう犯罪じゃない!?ていうか元カノは何だったの、結局結婚するならああいう子だよねって元カノ振ったなら、私金子くんのこと嫌いになるよ」 「いやこちらと致しましても、目立たないけど堅実な女の子って俺みたいな縁の下の力持ち的ポジの男を見ててくれると信じてたのに、結局は金子みたいな、顔が良くて華がある男に行くんだ!?って俺はもう愕然としたよ!」 自分だけではどうにも消化できない感情が、新婚の二人への愚痴となって立板に水の如く溢れ出る。 香夜にとって、秋奈は3歳年下の後輩。 新人の頃から仕事も丁寧に指導してきたのに、結婚するから辞めるなんて、勝手に裏切られた気持ちになる。 結婚しても続けられる職場のはずなのに。 自分が頑張って教えてきたことは何だったのか。 そして逆算してみると、秋奈は入社して2年なのだから、新人の頃から金子と付き合っていたということになる。 あまりに早すぎるし、アッサリ辞めるのならもういっそ仕事のやる気を見せないで欲しかった。 そしてそれ以上に。 「結婚式も披露宴もないって、そんなの、そんなの本当に好きで結婚したんだなって感じがして余計ダメージ大きい…」 「女の目線って感じだね」 「結婚式が人生のピークだなんて思ってないけど、思ってないけどさぁ…」 「ここはひとつ、ご祝儀貧乏にならずに済んでラッキーだと思おう」 「それはいい考え!結婚式ってドレスとか美容院とかでお金かかるのよ」 「女の人は大変だよな」 一息に話し尽くして、二人はほぼ同時にハンバーガーにかぶりついた。 「ああ罪深い味がする…ダイエットも栄養バランスもこのジャンクな味の前では無力」 「いや俺は自粛中に主食かよってくらい食ったからねハンバーガー」 「それはそれは自粛太りなさったことでしょう」 「うるせえその通りだわ」 結城だって、一時は自炊したほうがいいかもしれないと、スーパーでカット野菜と肉を買って炒めてみたりした。 だが長続きしなかった。 それなりに食べられる食事を作ることは出来る。 だが料理というのは作業そのものだけでなく、メニューを決める、買い物に行く、作る、使ったものを洗う、洗ったら仕舞う、そして残った食材をどう使うか考える、という工程が無限ループなのだ。 結城は手持ちのメニューのバリエーションが少なすぎたため、連日同じようなメニューが続いた挙句、半端に残った食材を腐らせてしまった。 卵10個入りパックを買ったはいいものの、賞味期限に追われて茹で卵6個を夕食にした日もある。 今結城の一人暮らしワンルームアパートの冷蔵庫には、野菜炒めの味付けに使ったチューブ調味料が役目を待ちくたびれて転がっている。 もちろん今日もチューブ調味料に出番は来ない。 テリヤキバーガーをあっという間に食べ尽くした結城は続け様にダブルバーガーの包みを開いた。 上司から、いずれハンバーガーなんて胃もたれして食べられなくなるなんて脅されているが、今のところその気配はない。 なんならやけ食いであと一つくらいいける。 いくとしたら何だ、チキン系だなと考えながら、コーラで口内のテリヤキ風味を流して、ダブルバーガーにかぶりついた。 自粛太りの身とは思えない。 世の中には自粛期間にダイエットした人もトレーニングに目覚めた人も、ヨガ筋トレランキングを始めた人もいるだろうが、結城はそんなことはなく。 余るほどあったはずの時間は、惰性でスマホを触っているうちに消えて行った。 家にいる時間が増えるということは一人でいる時間が増えるということ。 仕事で外に出ていたときよりもずっとずっと。 「…金子が結婚した気持ちもわかる」 「急に何、忍法手のひら返しの術?」 「何だそれ。いや、ずっと家にいて、一人で、家で仕事してってやってると、誰かいて欲しいって思うよ。特に家事なんて。そりゃあ秋奈さんみたいな家庭的な子と付き合ってたなら、結婚しようって思うわ」 「仕事してる間に家事やっといてってこと?秋奈だってリモートで仕事してたのに」 「そうは言っても、金子と秋奈さんじゃ仕事の量が違うでしょ。リモートになってから、ちょっと5分だけ打ち合わせって言ったはずなのに2時間拘束とかザラにあったし」 「リモートの弊害が出てる…」 「いやしかし秋奈さん、リモート会議の時に映り込んだり一切なかったな、そこまで陰になれる子も今どき珍しい」 「…でも言われてみれば今も少女漫画ってそういうの多い…イケメンで人気者に選ばれるのはそういう、でしゃばらない家庭的な女の子」 「参考にならない。漫画はファンタジーでしょ、俺だって童貞がモテるエロ漫画のことファンタジーだと思って読んでるよ」 言ったあとで、結城はハッと気がついた。 女性に向かって言うことではない。 すっかり壁と会話している気になっていた。 鷹見がハンバーガーを食べる手を止めて顔だけ結城に向けている。 やめろそんな目で見るなと目を逸らす。 「結城くんもそういう漫画読むんだ」 「…読みますよ、18歳以上の男なので」 これ以上いくとセクハラで訴えられるのではと恐怖を感じ、結城は口にポテトを詰め込んだ。 揚げてから時間の経過したポテトはもっさりと塩辛い。 「そういうバナー広告押しちゃうタイプ?」 「なんでわかるの、俺のスマホ見てんの!?つかまだこの話すんの!?」 広げるなもう勘弁してくれ、とストローを咥えてコーラを啜る。 横並びは顔が見えないから、言わなくていいこと、言わないほうが良いことも口から滑り出してしまうという気づき。 「実は私も、結構押しちゃう。さっきも言ったけど、地味な女の子がハイスペックに見染められるやつ。最近多い。現実はそんなことないって思うけど、なんか読んじゃう。今どき、家事が得意で結婚するなんて、相手の男もどうなのって思うけど」 「現実にそんなことが身近で起きた今のお気持ちは?」 「結城くん性格悪いこと聞くね?ふざけんなコノヤロウってお気持ちですよ」 鷹見がアイスカフェラテを一口啜って、しんなりしたポテトを齧歯類のような速度で口に運ぶ。 どうせマスクで隠れている口元なのに、唇には鮮やかなオレンジが塗られていることに気がついた。 見えなくても綺麗にしているんだなと、それが何のためなのかと、少し考える。 「鷹見はそういう漫画をどういう気持ちで読むの?」 「どうって…うーん、ヒロインの子って基本恋愛経験のないいい子なの。だからまあ、頑張れって気持ち。イケメンがそんな冴えない子に目を留めることある?って思うことはあるけど」 「ヒロインに感情移入はしないんだ」 「だって私、恋愛してきたし」 「そっすか」 サラリと言われて言葉に詰まる。 結城は鷹見の恋愛履歴を知らない。 そんな話をするほど親しくない。 同じく鷹見も、結城が就職して以来彼女がいないことを知らない。 どちらかというと、知られたくない。 結城は、鷹見に対して少々の苦手意識があったのは、恋愛経験値の差を見抜かれそうでビビっていたのだと今思い当たった。 そしてそれはとても失礼なことだとも。 「ちょっとヒロインにイライラすることはある。なんでそんなに自信ないの?とか、こんなに鈍い子が新人で入ってきたら私無理かもって」 「なるほど。俺は正直、好きなタイプ」 恋愛経験のない控えめで家庭的な女の子なんて、男の都合で生み出されるキャラクターだと思っていた。 そういう子が少女漫画でもヒロインになれるなら、もしかして世の中にはそういう子がたくさんいるのだろうか? それとも、いないからこそヒロインになれるのか? 「結城くん、秋奈のこと好きだったの?」 「…好き、までは行ってない」 好きか嫌いかで聞かれたら好きだ。 だがそれが恋愛感情かと聞かれたら、答えに窮する。 たぶんそうだけどそこまで熱量があるわけではなかった。 熱量があったらちゃんと行動に移していたし、金子との結婚にはもっとダメージを受けているだろう。 仮に、もしも、あちらから恋愛として好かれているとわかったら、あっという間にこちらも好きになっていたかもしれない。 どこまでも受け身で流されやすい男だと、自分が情けなくなる。 「まあ秋奈優しいからね」 「誰でもいいから彼女欲しいって思ってた時期に、優しくされたらまぁ、そうなるでしょ」 「秋奈なら行けそうだと思った?」 見抜かれて口籠った。 鷹見は見た目に気を使っていて自立心の強そうなタイプ。 意見もきちんと主張する。 対して秋奈は、華やかではないが人のサポートに向いていた。 意見が対立したらすぐに折れて合わせてくれる。 ああいう子と結婚したら幸せだろうと考えたことはあった。 でも同時に、それは家事が得意な女の子と結婚したら自分が面倒に感じている家事の類を人任せにできるだろうという自分の都合だともわかっていた。 誰にでも優しい女に当たり前に優しくされて、それでほんのり意識してしまうくらい、恋愛が遠きにある結城としては、結婚は自分の都合でしか思いを巡らせられない。 「私、ずっと間違ってたのかな」 鷹見が食べ終わったチーズバーガーの包みを畳みながら呟いた。 アイスカフェラテをズゴロロロロロと飲み干して、薄いピンクのマスクをつける。 「髪とかメイクとか服とか、自分の好きなようにするのがいい女だって信じてた」 「…いいんじゃない?それで」 「でも、私そんなに強くなくて。誰かに褒められたら嬉しいし、それが好きな人だったらもっと嬉しいから、結局、これがモテるって言われるものに流されて、でも全然モテなくて。今更だけど、やっぱ家事得意になっといたほうが早かったかなぁ」 「鷹見はモテたいのか、意外だ」 結城からみればモテそうだが、案外放っておいてもモテるタイプではなかったらしい。 「モテなくてもいい!って言えるほど自分に自信ないもん」 異性の目を引く容姿であること、は意識していたのだろう。 焦げ茶色の髪もつるりとした肌もオレンジ色の唇も。 「可愛いと思うけど、俺は」 「えっじゃあ付き合って」 「…はっ?」 「誰でもいいってさっき言ってたじゃない、どうですか私」 トレイの上を綺麗に片付けた鷹見は、もうやることがないのか結城の方に身体を向けている。 「ど、どうとは?」 「鷹見香夜、独身、27歳、会社員です」 「存じております」 お見合いか?というプロフィール紹介をされたが、知っている情報しかない。 逆にいえば、それ以上は知らない。 「えー…あ、料理はあんまりだけど掃除はそれなりにできます」 「俺は料理も掃除も壊滅的ですがよろしいですかね」 手元のトレイを見れば一目瞭然だ。 冷え切ったポテトが散らばり、くしゃくしゃにしたハンバーガーの包みが2個転がり、ストローの袋は紙コップの下敷きになって水滴を吸って溶けそうになっている。 「うわ、だから秋奈なんだ!?毎日お弁当作ってて丁寧な生活してる系の子に全部やらせるつもりだったんだ、うわーそうか、金子くんだってそうに決まってる」 「いやいや、自分が苦手なことが上手な人、普通に尊敬するじゃない?」 「家事は分担の時代ですよ、だから私、料理好きな男の人と結婚すればいいと思ってて…ああ私も自分が苦手で面倒なこと人に押し付けようとしてたんだ…」 鷹見がカウンターに両肘をついて頭を抱えた。 「家事は分担する時代だからって、自分がやらない理由にしてた。なんなら家事やれるアピールする子は軽蔑してた。だからモテないんだ…」 「結論でちゃったよ」 普通に働いていれば、疲れた時くらい身の回りのことは全部やって欲しい。 恋愛漫画のヒロインみたいな人に全部面倒みて欲しい。 それは女だって同じだ。 甘やかされたいし愛されたいし労られたい。 「結婚がすべてじゃない」 「うん」 「でも一人は寂しい」 今日もこのまま、帰ってシャワー浴びて、スマホ触って寝るだけだ。 雑誌に載っているような、インスタで注目されているような、理想的な満たされた女ではない。 せめてとっておきの高いシャンプーを使って、貰い物のアロマキャンドルを炊こうと心に決める。 そういえばあのアロマキャンドルも、誰かの結婚式の引き出物に入っていたやつだ。 「寂しいのか、お互い様だな」 「寂しいっていうか、今日だって家帰って、一人で、ご飯食べてお風呂入って動画みて寝る」 「ああ、俺もそんな感じ」 「…そういうことを、誰かと分かち合いたい」 「寂しいんじゃん」 「自分のこと、寂しい女って思いたくない。充実してないって思いたくない。仕事楽しいって思いたい」 27歳、同期もぽつぽつと結婚している。 それを笑顔で祝福できなくなったのはいつからだろう。 まだ若いという気持ちと、焦りと、あっという間にすぎる年月。 結婚はしてもしなくてもいい。 子供は産んでも産まなくてもいい。 仕事は続けたほうがいい。 だけど、産休から復帰した先輩方を目の当たりにしていると、何が正解かわからなくなる。 仕事のキリがついてないのに保育園から呼び出され、それをカバーする独身たちから疎まれ、考えの古い上司から嫌味を言われ、それでも仕事を続けることを選んだはずなのに、選ばされたようにみえてしまう。 誰に急かされているのだろう? 「ねぇ、女は仕事でキラキラしてないと価値がない?」 男の結城にこんなことを聞くのは憚られるが、つい聞いてしまった。 「そんなことないでしょ。仕事は仕事、お金がもらえるからやる。男はずっと働いてて、それが当たり前だからそう割り切れるけど、女の人は難しいよな。俺は、仕事辞めないようにそういう幻覚を見せてるだけだと思うけど」 「誰が?」 「…世の中?だから秋奈さんが仕事辞めるって自分で決めたならそれでいいと思う。離婚したら生活できないとかいうけど、結婚するときに離婚のこと考えてる人は結婚しないほうがいいんでない?」 鷹見の頭の中に、学生結婚して子供を連れて離婚した同級生が浮かぶ。 確か実家に帰ったはず。 子供が出来て、両親の反対を押しきって結婚したのに、結末は泥沼だった。 子供を産み育てるということは、人類がずっとやってきたことのはずなのに、あまりにも難しい。 もしかして退化しているのではないだろうか。 そしてこのまま、子孫を産み育てることの難易度が上がり続けて人類は滅亡してしまうのではなかろうか。 そんな妄想が頭を駆け抜けた。 「じゃあ、結婚は置いといて、恋愛してない女は寂しい?」 「それもない。恋愛しなくても充実してればいいと思うし、それに恋愛してない男はどうなのよって話にもなる。ちなみに俺は寂しいぞ」 「仕事も恋愛もキラキラしてないから、私の方が倍寂しくない?」 「寂しくみえないよ。俺だって仕事はつまらない」 「目の前の課題をとにかくやっていく感じだもんね。お給料良いわけでもないし」 「ああまあ、一人暮らしだとギリだよな」 「そう、欲しいバッグをボーナスで買うのがやっとって感じ」 欲しかったバッグは仕事に向かないデザインで、鷹見はもう2年使い込んでいる通勤バッグに目をやった。 買い換えたいけど、通勤のために使うお金はなるべく抑えたい。 いや逆に、通勤バッグがお気に入りのものなら、仕事も楽しくなるのでは? 考えてみたものの、そんなのはまやかしにすぎないと結論付いた。 「趣味に全振りしたら?佐藤さんとか、好きなアイドルが出るテレビ追いかけるだけで忙しそうだけど」 ベテラン社員の佐藤さん、独身女性。 最近デビューしたアイドルグループに夢中らしい。 それを公言して、今日は生放送なので帰りますと堂々と帰る。 そのぶん仕事はひたむきだ。 子育てしながら働いている人たちが急に休んでも、そこをしっかりサポートしてくれる。 何故ならお給料が増えればその分、買えるCDの枚数が増えるから。 「趣味かー、趣味…動画を見ること…」 鷹見は普段自分がやっていることを思い返してみたが、惰性でスマホを眺めている以外に見つからなかった。 「お、なんかオススメある?」 結城に食いつかれて焦る。 何も出てこない。 昨日何を見たっけ? 海外のおじさんのおもしろ動画。 いやさすがにそれは言えない。 何となく恥ずかしい。 「…流行ってるやつを適当にみてる」 「ほお」 「どうしよう、勧められるほど夢中で観てない」 恋愛リアリティショーも、自分と比べてしまって、途中から辛くなった。 そういえば先週末は、とうとう配信が始まった高校生の時に好きだった連続ドラマをみた。 あの頃は楽しかった、なんてやってるほうが虚しいのでは? でも本当に好きだったなら、何度見直してもいいはず。 大人になってから見直すと、感情移入する人物が変わっていたりするし。 「俺ゾンビ系が好き。今やってるやつ面白いんだよ」 硬くなったポテトをコーラで喉の奥に押し込んで、やっと結城のトレイから食べ物が消えた。 「ええ…ゾンビ系みたことない」 流行り物はとりあえず見る鷹見だが、ゾンビ系は怖いというかグロいイメージがあって、少し前に話題になった映画も、ゾンビものだと聞いてパスしてしまった。 「あー、苦手?」 「…んーん、ただの食わず嫌い。今度観るから教えて」 新しいチャレンジをしよう。 見たことないジャンル、一度見て苦手だったらやめればいいし、案外面白かったら儲け物だ。 「いや、そこは一緒に観ようでしょ」 結城の言葉に、思わず眉が寄る。 「え、何で」 「さっき付き合ってって言ったじゃん」 「さっき?」 さっきの事を思い出す。 そういえばそんな事を言った。 人類の滅亡を心配していて忘れていた。 話が変わったから流されたんだと思っていた。 「付き合ってたら一緒にみてもいいでしょ」 確かめるようにもう一度言われて、今になって、しまった、という感情がやってくる。 「…付き合ってるの?私達」 だとしたらいつから? さっきか。 たしかに、付き合ってとは言ったがイエスとは答えが返ってきていない。 目の前の男が料理も掃除もいまいち出来ないということしかわかっていない。 それは事故物件なのでは? でも仕事はまあ、けっこうちゃんとやっている。 人に押し付けてばかりで手柄だけ総取りするようなことはない。 むしろ細かな面倒ごとを粛々と片付ける役回り。 損な性格だと思っていた男と、付き合っている?今?自分が? 鷹見はマスクの下で乾く唇を舐めた。 撤回する? それもない。 新しいチャレンジだと思えば。 いやでも職場恋愛で新しいチャレンジはやらかした部類に入るのでは? 面倒になったら転職する?このご時世に? 鷹見の脳が猛スピードでフル回転している間に、いつの間にか不織布マスクをつけた結城が身体ごと向き合ってきた。 膝がぶつかりそうになる。 ソーシャルディスタンスは何処。 「固まってるところ悪いけど、自分が言い出したよね?酒飲んでるわけでもないし」 「言ったのは、ちゃんと覚えてる」 気持ちだけ背を引く。 2メートル離れるのは無理としても。 「良かった、俺の幻覚じゃなくて」 結城が安心したように笑う。 良かったと思ってくれたのか、と思うと、撤回しようかと一瞬でも過ぎった鷹見としてはむず痒い。 「じゃあまあ、そういうことで、よろしく」 「そ、そっか」 よろしくって、本気でそういうことになった? だとしたら、握手くらいしたほうがいい? 今ならグータッチ?肘のほうが安全? 考えすぎて手を出すこともできない鷹見に、結城は何か誤解したのか頭を下げた。 「…ごめん、シチュエーション的にはあんまり、良くなかったかもしれないのは反省する」 「そうね…シチュエーションだけで言えば落第点だわ」 気がつけば20時がすぐそこ。 ハンバーガーショップのカウンター。 学生でももう少し、相応しいシチュエーションがあるのでは。 「なんか夜景の見える高いレストランみたいなところは、おいおい、感染症が落ち着いてからかな」 「高いレストランとか、夜景とか、そんなのに騙される歳じゃないんで、けっこうです」 レストランの値段も評価もスマホ一つで調べられるし、なんなら夜景もドローンの映像でいい。 同期で同僚のお給料は大体わかるし、その状態で高いレストランを奢ってもらおうとは思えないし、割り勘なら他の店に3回行ったほうがいい。 「大人になったから高いレストランとか夜景とかを武器にできるんだよ」 「武器が良くても結局使う人次第だなぁと、さっき気がついた。結城くんに夜景の見えるレストランに誘われたら身構える」 「何で!?」 「気合入ってんなーと思って」 「入るでしょ気合。入れるでしょ気合。口説こうとしてんのバレるのはダメ?」 「え、口説いてくれるの?付き合ってるのに」 「…善処します」 どこでスイッチの切り替えを間違えたらこんなことになるのだろう。 食べ終わったトレイを持って立ち上がり、ゴミを分別して捨てて、早い店じまいを始めた暗い街を並んで歩く。 手を繋ぐでもなく。 ただどうでも良い話をつらつらと。 意外と話題が途切れない。 駅に向かう。 もちろん路線は違う。 「…えーっと、じゃあ、今日はここまでで」 結城の解散宣言に、鷹見はマスクの中で息を吐いた。 安心と残念の両方で。 自分から言い出したことなのは間違いないが、心の準備ができていない。 「うん。うち来る?って言えるような状態じゃないから」 「俺も。そういうところが恋愛を遠ざけてきたんだろうな…」 「今!恋愛の!真っ只中でしょうが!」 「実感ねえな」 「お互い様です」 結城の家が、すんなりと女の子を呼べるような状態だったら、就職以来恋愛から遠ざかるということはなかったかもしれない。 もしもの話をしても仕方がない。 なんの間違いか恋愛はスタートしてしまい、双方の心の方がついていけないのだから。 「俺、帰ったら掃除するから」 「…うん」 二人の間に、謎の緊張感が走る。 お互いマスクで顔の半分が見えないのに、その下の口元まで想像がつく。 たぶん結城は紡ぐべき言葉を何度も咀嚼して、声は出ていないのに口元が動いているし、鷹見は逆に、きゅっと結んでいる。 「ちゃんと呼べる状態にするから、えー…今度、うち来る?」 何度も咀嚼して、やっとの思いで言ったのに、鷹見の返球は辛辣だった。 「今度ってのは永遠に来ないと同義だから。約束するなら具体的に」 球速が速い。 結城は体勢が取れないまま、必死で打ち返す。 ちなみに野球はやったことがない。 あくまでも例えだ。 「じゃあ、明日」 「急だねー生き急ぐねー」 ピンクのウレタンマスクがぺこぺこと動く。 笑っているのだろうと仮定して話を進める。 「今日徹夜で掃除するわ」 「仕事に差し支えるよ」 「寝れねえよ、寝たら夢から醒めそうだし」 正気になったら全部ひっくり返したくなりそうだ。 今目の前の彼女と恋愛している。 実感も現実味もない。 「無理できる歳じゃなくなってきてるのに」 「うるせえ、その通りだわ」 「寝なよ、でないと明日私が行っても寝落ちするよ」 「寝れっかな、遠足前日の気分なんだけど」 「子供じゃないんだから」 手を振って別れるタイミングがわからない。 ずっと立ち話していられる気もする。 それはいいのか、悪いのか。 立ち話するくらいなら二軒目に行けば良いのか、いや今はどこの店も閉まっている。 「じゃ、私帰るね。明日行くから、渾身の掃除の成果、見せてもらいます」 「…おお、見とけよ」 鷹見がきっかけを作ってくれて、やっとそれぞれの路線へと向かう。 一度首を捻って鷹見を探したが、まばらな人並みの中に後ろ姿を見つけることはもう出来なかった。 明日、家に来る。 正気か? 誘った自分も、誘いに乗った鷹見も。 とにかく掃除、掃除をしないと。 散らかってるけど、で済む状態ではないのだ。 だいたい、散らかってるけどと言いながら他人を部屋にまねくことができる部屋の状態は、散らかっているうちに入らない。 散らかってるけどと言いながら本気で足の踏み場もなく散らかっていたら、実った恋も即座に萎むに決まっている。 散らかってる、と言いつつそこそこ綺麗、これが理想。 ゴミ袋、手袋、雑巾。 あと何がいる?今家には何がある? 結城は電車に揺られながら、現実逃避の勢いで、頭の中に今家にあるであろう掃除道具を思い出す。 面倒くさいから全部買って帰ろうと、ドラッグストアの明かりに飛び込んだ。 燃えるゴミ袋、仮に家にあったところで困らない。 手袋は使い捨てのものを。 雑巾は5枚入り、ついでに除菌シートとアルコールスプレー。 消臭スプレーも一応買う。 パッケージをみて、高校生が彼女を部屋に呼ぶ前に家のそこらじゅうに吹きかけていたCMを思い出した。 今まさにそんな気分だ、やることが10年遅い。 いざ帰宅してみると、洗剤だの使い捨ての手袋などは、中途半端に使いかけたものがあった。 腐らないのだから、買い置きしておいて困ることはない。 結城は着替えもしないままゴミ袋を開いて、とりあえず、目の前にあるものを手に取った。 半年前に利用したカツ丼屋のクーポン券。 有効期限が切れている。 ゴミ袋にいれると、次に目に着いたのは目薬のケース。 中身はない。 これもゴミ袋行き。 捨てるタイミングを逃して積み上げたチラシ。 あちこちから発掘される割り箸。 コンビニのくじで当たった粉末ドリンク。 ペットボトルについてきたフィギュア。 ポストに入っていた水道業者のマグネット。 「ゴミばっかりじゃねえか」 彼女を呼べる部屋にしようと思って見直すと、今朝まで家具の一部と見なしていたものが全部ゴミに見える。 付け焼き刃で生活感の一切ない部屋にできるとは思えないが、やれるだけのことをやるのが礼儀だと、結城は夢中になって目の前のものをゴミ袋に突っ込んでいく。 21時近くになってやることではないのはわかっているが、タイミングよく明日が燃えるゴミの日だったのだ。 燃えるものは全部出してしまえとばかりにゴミ袋を次々開く。 この部屋に、鷹見が来る。 嘘だろ?ドッキリ? 普通の会社員にドッキリをかける意味はわからないが、一応、なんとなく、隠しカメラ的なものがないか探してしまう。 身の回りに質の悪いYouTuberがいるかもしれない。 例え身の回りの人間だとしても、結城の部屋の鍵を複製して隠しカメラを仕掛けていたら犯罪だろう。 わかってはいるが、そんな謎行動に出てしまうくらい、予想外の事態なのだ。 食事とパソコン作業をすべてローテーブルで行っているから、その周辺は特に不要物が多い。 カラカラに乾いたコンビニのおしぼりがテーブルの下から発掘された。 リモート会議のときにベッドが映り込むのを、背景を変えることで誤魔化してきたツケが今降りかかっている。 座椅子をどかすとパラパラと謎の粉が散った。 一昨日のスナック菓子だ。 掃除機をかけるような時間ではないから、粘着テープをコロコロして、破って捨てる。 「やべ、座るところねえな」 自分だけが使っているクタクタになった座椅子に、鷹見を座らせるわけにいかない。 かと言って、すぐ後ろにあるベッドではあまりにも生々しい。 「….買うか」 どうせなら自分の座椅子も買い換えよう。 駅前に、結城が一人暮らしを始めたときにあらゆるものを買い揃えた低価格が売りの家具店がある。 明日の仕事帰りにそこで買えばいい。 なんなら鷹見に選んでもらおう。 多少の出費を厭っている場合ではない。 ソファーはさすがに置けないが、座椅子2つくらいなら大丈夫だろう。 あまり高いものを張り切って買っても、後の処分に困る。 「…いや、付き合った日に別れた後のこと考えるなよ」 離婚すること前提で結婚する人間は結婚しないほうがいいとかなんとか、言ったのは自分なのに。 さして広くないワンルームは、不用品をゴミ袋に入れてしまえばそれなりに片付いて見える。 勢いのままにクローゼットも開けた。 普段着ているスーツはともかく、3年は着ていないコートやサイズが合わなくなったデニムは処分していいだろう。 だがここに手をつけると朝まで終わらない上、ゴミ袋が足りなくなる。 今度にしようとクローゼットを閉めた。 瞬間、鷹見の、今度は永遠に来ないという声が耳に蘇る。 「…次の、燃えるゴミの日の前にします」 ここにはいない鷹見にそう宣言した。 シーツ類も変えようと思ったが、この時間から洗濯機を回すのも気が引ける。 洗って乾いたものをそのままかけるから、替えなどない。 これも明日だ。 確か、ベッドカバーも駅前の家具店で買った気がする。 ついでに買ってしまえ。 自粛の影響で飲み会その他がなくなって、多少生活費の余裕はある。 ゴミ袋3つを玄関に置いて、ついでに靴も整理した。 仕事用の革靴、休日用のスニーカー、ゴミ出しその他近所のコンビニに行くときにつっかけるサンダル。 人間が一人なのに3足も靴があるし、狭い玄関はその3足があるだけで散らかって見える。 とりあえずスニーカーを脇のシューズボックスにいれた。 今気がついたが、暮らし始めてからここを開けたのは初めてなのでは。 開けなさすぎてホコリすら積もっていない。 今日はここまでにしよう、と一息ついて部屋を見回した。 ネクタイも解かずによくやったと思う。 一度でも座ってネクタイを解いていたらここまでやれなかっただろう。 埃と汗を流そうとシャワーを浴びる。 ついでに、ずいぶん前から風呂場にあった、カラカラに乾いた石鹸なども処分した。 そうなると他の汚れや不用品も気になり出す。 試供品のシャンプー、使ったことがない。 歯ブラシもいい加減に変えた方が良いのでは。 うがい用のコップをキッチンに持っていって洗剤で洗う。 雑巾を濡らして、髪の毛その他を拭き取って、ついでに鏡を拭いたら思った以上に汚れていた。 雑巾はそのまま捨てる、なぜなら代えがあと4枚もある。 新しい雑巾で足元も拭く。 あまり見たくないくらい埃が絡んでくる。 今朝もここで髭を剃って寝癖を直していたはずなのに引いてしまう。 せっかくサッパリしたのにまた埃と汗にまみれてどうすると思い当たり、作業の手を止めた。 2枚目の雑巾は捨てずに、洗面台の下のパイプに引っ掛ける。 手を洗って髪をドライヤーで乾かして、時計を見れば深夜2時。 寝たら夢から醒めてしまうとは言ったが、寝なければ明日に差し支える。 …少し寝よう、そして起きてすぐに掃除機をかけてゴミ出しだ。 いつもより30分早くアラームをセットする。 起きれるだろうか。 それ以上に、夢から醒めてしまわないだろうか。 寝ずに掃除すると言ってしまったのに寝るのは反則かもしれない。 でも、寝なさいと言われたし。 横になって目を閉じる。 鷹見と、明日、会社で、どんな顔で会えばいいのか。 夢にまで見たらどうしよう、と浮ついた気持ちを抱えて眠りに落ちる。 期待は裏切られ、夢らしい夢は見なかった。 アラームに叩き起こされてベッドから這い出す。 朝からやることが多い。 すぐにベッドカバーを剥がして洗濯機を回し、右手に1つ左手に2つのゴミ袋を集積所に出して、掃除機をかけ、それからようやく仕事の準備。 昨日綺麗にした洗面台で髭を剃る。 やればできるのだと、ちょっと気分がいい。 ベランダいっぱいに幅を取るカバー類を干して、出勤。 今日はリモートでも良かったが、それだと鷹見と合流するタイミングがわからない。 これで鷹見が出社していなかったらどうしよう、笑うしかない。 新しい不織布マスクを装着して駅に向かう。 家具店の看板に、後で来るからなと心で告げる。 自分のテンションを維持するために。 今日いざ顔を合わせたら、夢から醒めて気が変わった鷹見に全部なかったことにされている可能性はゼロではないが、そこまで冷酷な女ではないだろう、さすがに。 ちょっと不安になるのは許してほしい。 自分に自信が無いだけなので。 座れはしないが潰れるほど満員でもない電車に揺られて会社に向かう。 途中でコンビニに寄って、ランチ用のパンとお茶を買うと、鞄に入れっぱなしでしわくしゃになったコンビニ袋にそれを詰めた。 ランチタイムなら飲食店もやっているが、休業している店があるせいか、営業している店は混んでいたりする。 テイクアウトの弁当を買ってくる手もあるが、一応保険として、明日の朝食に回すこともできる惣菜パンを選んだ。 なるべく早く、普通にランチの定食が食べられる世の中になって欲しい。 会社が近づいてくるにつれて、ソワソワと辺りを見回す。 昨日駅で別れたあとみたいに、鷹見の姿を探して首を巡らせた。 顔が見たくて探しているのか、顔を合わせたくないから探しているのか、自分でもわからない。 会いたいような会いたくないような。 いややっぱり夢だったのかも、寝るんじゃなかった。 「おす」 声と共にぽん、と結城の膝に何かあたって、カクンと力が抜けた。 小学生の悪戯かよ、と振り返る。 クリーム色のマスクをつけた鷹見が、難しい顔をして立っていた。 「お、おっす…」 照れ隠しにしても可愛くない挨拶を、そのままおうむ返しする。 「どうですか、進捗は」 「どの案件?」 「掃除のほうよ」 「え、あ、ああ。それはもう、バッチリと」 「…ほんとに?」 「朝から燃えるゴミ袋3つ出してきた」 「やだ張り切っちゃって」 「張り切ってますよ」 隣に並ばれて、肩の辺りがくすぐったくて、結城は左手のコンビニ袋を右手に持ち変える。 同僚同士の世間話にみえるでしょうが、これ一応、恋人同士の会話です。 「今日、定時ダッシュのつもりでいるけど…鷹見は仕事詰まってる?」 「そんなに。リモートで良かったんだけど、出てきた」 「俺もそう」 「…なんかくすぐったい」 「何で」 「何ででしょうね?」 鷹見がツンと目を逸らした。 双方出社したのは今日の約束のため。 その事実に、内心悶絶している。 昨日の今頃、ほんの24時間前には、こんなことになるなんて、思ってもなかったのだ。 浮き足立ってはいるが、とりあえず、いつも通りに。 同期の同僚らしく振る舞わなければ。 社内恋愛は秘するが花。 エレベーターに乗ったのを機に黙り込み、黙ったままそれぞれ同じオフィスに向かう。 あとは仕事をするだけだ。 会社にかかってくる電話、オフィスにしかない資料探しなど在宅している同僚のフォロー。 そこそこ忙しい。 忙しいくらいが丁度いい。 でないと足が床から浮く。 チラチラとお互いがお互いをみているのは感じるが、ガッツリ目が合う前に逸らしておいた。 見つめ合っていい環境ではない、平日のオフィスである。 そもそも、まともに見つめ合える気がしない。 恥ずかしい。 まだ恥ずかしい。 この恥ずかしさは、今日部屋で二人きりになっても続くものだろうか。 考えるのが怖くて、とにかく手を動かす。 「結城、今日はやる気がみなぎってるな」 「大事な約束があるので、どうしても定時に上がりたいんです」 「そ、そうか」 仕事を振ってきそうな気配の課長に、先制で断りを入れた。 大事な約束、と声に出したことで、そうか大事な約束なんだと改めて認識する。 「鷹見」 課長がそう呼ぶ声に、結城の聴覚がピリリと緊張した。 面倒ごとを押し付けるなよ、鷹見も今日は定時ダッシュだ。 鷹見ならちゃんと断れるだろう、大丈夫だろう。 そう念じながら耳をすます。 「午前中のうちに出来るかな」 「午前中ですね」 鷹見が念押しをしている。 午前中か、それなら大丈夫か。 こんなこと気にしなきゃいけないのか、社内恋愛というやつは。 これは思ったより大変だ、金子と秋奈はよく2年もやっていた。 金子が女性社員と話している時も、秋奈が手作り弁当について男は胃袋を掴んだほうがとかアレコレ詮索されている時も、無関心っぽくいたのだろうか。 真似できる気がしない。 女性社員に話しかけられたら鷹見の視線が気になるし、鷹見が男と話していても気にしてしまう予感がする。 いや仕事しろよ、はいそうですね。 一人で解決して手元に視線を落とす。 せっかく出社したんだからオフィスでしかやれないことを片付けて明日は在宅にする。 鷹見はどうするのだろう。 結城の家で二人で在宅仕事は流石に出来ない。 テーブル狭いしWi-Fi弱いし。 じゃあ今日、家に来て、鷹見は家に帰るのか。 泊まって行くとまでは思ってなかったけど、いや考えてもなかった、嘘、少しは考えたし期待もした。 手が止まる。 良くない、良くないぞ。 「結城くん」 「おっ…おお」 鷹見に話しかけられて、イスを軋ませて身体が飛び上がる。 「ごめん、びっくりした?」 「いや大丈夫、何?」 「この書式の原本、持ってたらコピーさせて」 「あ、ああいいよ」 仕事の話だった、そりゃそうだ。 同僚ですから。 恋人だけど。 鷹見はさっさと用件を済ませて離れて行く。 挙動不審だったかなと、結城は勝手に不安になってきた。 仕方がない、社内恋愛初心者なんです許してください。 誰に許しを乞うているのかわからないが、そう懇願した。 昨日ハンバーガーを食べているときにはこんな気持ちにならなかった。 急激に鷹見がキラキラしてみえるとかそういうことはない。 逆に鷹見からしても、結城がキラキラしてみえるとかいうこともないだろう。 あったら大ごとだ、鷹見の視力が心配だ。 手を動かしながら余計なことばかり考えていたら、昼になってしまった。 昼休憩も、みんなあまり出歩かない。 出て行ったと思ったらテイクアウト弁当を買って戻ってきたり。 惣菜パンをかじっていると、鷹見さんという声に耳が反応した。 後輩の女子だ。 「鷹見さんがお弁当って初めて見ました」 「いや、こんな時だし、テイクアウト飽きただけ」 何やら言い訳がましいことを言っている。 というか、弁当!? 鷹見が弁当を!? 見たい、どんなの作ってきてるのか見たい。 秋奈の影響か? だからって見学に行くのもおかしい。 首を伸ばして鷹見のデスクのほうをみる。 キャッキャと楽しそうだ。 「秋奈さんの結婚に影響されたとかですか?」 「…そういうわけじゃないけど」 結城と同じ疑問を後輩も持ったらしい。 そして否定された。 あとで確認してやる。 「お弁当くらいで結婚できると思ってないし」 「えー、でも秋奈さんもお弁当きっかけらしいですよ」 「そうなの?」 昨日の会話がよみがえる。 結局家事が得意な子に全部押し付けたいのかとブチ切れていた鷹見が。 当たり前だが食事中だからマスクをしていない。 口がもぐもぐしている。 あまり見るなと言わんばかりに、蓋で弁当箱を隠す仕草をした。 見えないから安心しろ、と結城は伸ばしていた首を戻す。 鷹見はそれを確認して、そっと蓋をずらした。 雑貨店の福袋に入っていたランチボックスに、ハムとチーズを入れたスクランブルエッグ。 ツナ缶と茹でたじゃがいもをマヨネーズで和えて、彩りにパセリを振ったサラダ。 ご飯に、香典返しでもらった味付け海苔。 家にあったもので拵えたにしては上出来なほうだ。 結城が掃除をすると言ったから、自分も何かやってみようと思いついた結果。 昨日の夜思い立って、冷蔵庫の中身で何が出来るか考えに考えた結果がこれ。 改めて冷蔵庫の中身を確認すると、賞味期限切れのわさびやジャム、もらったはいいけど飲んでいない缶コーヒーなどが発掘された。 賞味期限切れのものは潔く捨てて、缶コーヒーは目に入るところに置き直し、ついでに冷凍庫を占拠していた保冷剤もほとんど捨てた。 これで保存食も冷凍できる。 今度の休みに何か作ってみよう、と思って、今度は永遠に来ないと自分が言ったことを思い出した。 訂正、次の休みにやることにする。 それにしても、化粧品を買ったときにおまけでもらったコラーゲンドリンクが見つかったのはラッキーだった。 アロマキャンドルでリラックスする余裕などなかったけど、コラーゲンドリンクのおかげか肌の調子は悪くない。 肌の調子が良いだけで気分が上がる。 お弁当のために、いつもより1時間も早くアラームをかけて眠った。 今頃結城は掃除してるんだろう、とか考えると眠れないかと思いきや、そんなことは全くなく、どこかの温泉に行く夢までみた。 自粛が開けたら温泉行きたい。 出来たら友達と。 浴衣を着て名物食べ歩きとかしたい。 結城と行くという選択が浮かばないのは、まだ2人で出かけた経験がないからだろう。 これからこういうことがあるだろうか。 実感がない。 実は洗い物が間に合わなくて、じゃがいもを茹でた鍋を水につけたまま出てきてしまった。 朝早くからキッチンに立つなんて久しぶりで、効率が悪かったのは否めない。 卵焼きにしたかったのに、フライパンで焼いたから、結果スクランブルエッグ。 それに、どうみても野菜が圧倒的に足りていない。 だって野菜ってすぐに痛むし。 コンビニでサラダだけ買えばよかった? それは何か違う。 こっそり食べたかったのに、後輩に見つかってしまったし、結城にもバレてしまった。 しかも、めちゃくちゃみられていた。 恥ずかしい。 昨日の今日でお弁当持ってくるなんて、なんかものすごく、家庭的な女アピールしているみたいで。 でも昨日散々愚痴ったし。 別に家事が得意なわけじゃないことは伝わっているはず。 今更、見栄を貼っても仕方ない。 そもそも、なんで付き合ってるんだろう? 自分が口を滑らせたから。 ノリで言うことじゃない事くらい、少し考えればわかるのに。 しかも、今日、家に行く約束までしている。 ちょっと楽しみなのが不本意だ。 今朝ゴミ袋3つも出したと言うし。 それくらい本気になったということだろう。 鷹見が家に行くという事態に対して。 そこに悪い気はしない。 念のため、替えの下着は忍ばせてきていて、それもまた、自分で恥ずかしくなる。 でも明日を在宅勤務にするなら家に帰る必要があるし、かと言って2人で連れ立って出勤も誰かに見られそうで嫌だし、自分だけ出社するのはもっと嫌だ。 鍋洗うから帰るわってさっさと帰っちゃおうか? いやでもそんなことしたら、結城は傷つくだろう。 錯綜する思考回路に、味覚を働かせる余地がない。 ただ口を動かしていただけでランチボックスが空になっていた。 不味くはなかった、たぶん。 午後の仕事も特急で片付け、降りかかりそうな厄介ごとは回避し続けた。 さて、定時に退社出来たとして、一緒にオフィスを出るものだろうか。 ない。 それはない。 駅で待ち合わせ? スタート地点も目的地も一緒なのに? しかも待ち合わせって、なんかデートっぽくて照れる。 もしかしたら、おうちデートと呼ぶものなのかもしれない。 今思えばランチボックスが邪魔だ。 明日まで持ち歩いていたら臭ってきそう。 しまった、考えが足りなかった。 キッチンを借りて洗わせてもらおうか? 結城の家に、洗剤とスポンジはあるのだろうか? 同期で同僚でも知らないことだらけだ。 聞いてみて、ないなら買っていこう。 でも食器用洗剤とスポンジがない家に住んでる男は嫌かもしれない。 ゴミ袋3つ出してもまだゴミ屋敷かもしれない。 そうしたら、鍋洗うからって帰ろう。 スマホの時計をみる。 あと10分。 結城のデスクをみる。 まだ何かやっている。 あれ、間に合う? こんなにキッチリ時間を合わせたのは自分だけ? スマホが光る。 LINEだ。 結城から。 スタンプの往復だけだったトーク画面に、初めてメッセージが現れる。 『先出て、駅で待ってて』 返信のスタンプに迷って指が止まる。 いやでも待ってスタンプで良い? メッセージにはメッセージのほうが良くない? 『わかった、待ってる』 送信してから気恥ずかしくなった。 待ってる、って。 いや待つけど。 すでに既読がついたから消すこともできない。 照れを誤魔化すように、公式アカウントを友達登録すると無料でもらえるおもしろスタンプを送った。 結城の肩が震える。 一瞬こちらをみて、なんだこれ、とマスクの下で笑っている。 これは確実に、浮かれたカップルのやりとりだ。 私は浮かれてなんてない、と足を意識的に床に付ける。 定時ジャスト、ではなく五分ほどおいて離席した。 結城はまだ何かやっている。 まあ追いついてくるでしょう。 駅まで並んで歩くのも、社内恋愛感あって嫌だし。 あれ? でも昨日、駅まで並んで歩いたけど? 思わず足を止めた。 昨日は全く、一ミリも意識していなかった景色が急に変わって見える。 昨日、どうやってハンバーガーショップまで行ったっけ? 駅までの道中には、今は休業しているけどいい感じの外観のバーとか、ランチで御用達のパスタカフェとか、一度行ってみたかったけど女1人では入りにくい居酒屋がある。 いずれは仕事帰りにこういうところに寄ったりするのかもしれない。 でもそれは、今日家に行ってゴミ屋敷じゃなかったらの話。 「おす」 急に隣が暗くなった。 結城が追いついてきて、隣に並んで歩いている。 「…おす」 「メシどうする?さすがに2日続けてハンバーガーはないだろ」 というか、昨日は一ミリも意識していないただの同僚だったからハンバーガーでも良かったわけで。 背伸びしなくても見栄を貼らなくてもいいのはありがたいが、最初くらい気張ろうお互いに。 「やってるとこあるかな?」 「このへんほとんど休んでるよな」 「テイクアウトでもいいけど、テイクアウトってめっちゃゴミ出るよね」 「すっげえわかる。しかもかさばるし」 「それに私、そんなにお腹空いてない」 「…じゃあ、とりあえず、うち来る?」 昨日お互いに言えなかった言葉。 結城的には、精一杯さりげなく言ったつもりだった。 「あ、はい、そうしよっか」 受け取る鷹見としても、そういう前提だったから、頷いただけで。 改札を抜けて普段と違う路線。 初めて降りる、各駅停車しか止まらない駅。 一歩ずつ緊張感が高まる。 「あ、ちょっとそこ寄るわ」 結城が指した家具店に、鷹見は首を傾げる。 「ソファーとかないから、椅子買ってく」 「え」 「鷹見の好きなやつ選んで」 「は?私の椅子?」 「椅子っつうか、座椅子のほうがいい」 すぐゴミになるんじゃないの、と言いかけて飲み込んだ。 付き合った翌日に別れた後のことを考えるものではない。 鷹見が選んだスタンダードな座椅子を、結城が支払いして、大きな袋を持ってくれる。 変わりに、鷹見は結城の通勤鞄を持ってあげた。 結城の鞄はけっこう重い。 たぶんノートパソコンが入っている。 明日在宅するつもりだと予想ができた。 「カップルみたいだね、こういうの」 「カップルだよ、しっかりしてくれ」 そんなやりとりをしながら、結城の歩みに合わせて知らない町を歩く。 うっかり始まってしまった恋愛に浮かれる気持ちと、この恋愛は果たしてうまく行くのだろうかという不安がせめぎ合う。 だって職場恋愛だ。 これで泥沼な別れ方をしたら、絶対にどちらかが退職する。 別にしなくていいけど、顔を合わせるのが気まずい。 今日一日でも結構疲弊したのに。 でももうここは、乗り掛かった船。 しかも次の港が見えないまますでに出航している。 恋愛とか結婚とか寿退社とか産休とか時短勤務とか、破局とか離婚とかリストラとか、どんな風が吹いてどんな波が襲ってくるかはわからない。 現時点では、お互い別の船に乗っている。 並走くらいはしているかもしれない。 いずれ同じ船に乗る覚悟ができるかもしれないし、またそれぞれ航路を違えることもある。 コンビニの2軒隣のアパート。 一階の角部屋に、結城が鍵を刺した。 手が震えるのか、うまく回っていない。 「緊張してんじゃん」 思わず笑ってしまった鷹見に、結城は振り返らずにもう一度、鍵を刺し直した。 「してるよ、するでしょ。…彼女が家に来るの、初めてなんだよ」 バカ正直な声と、鍵が回る音。 笑っていた鷹見も、真顔で2つの鞄とトートを持つ手に力を込めた。 もうこの船からは降りられない。 せめて楽しい船旅になることを祈った。
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