ケムる

1/1
前へ
/1ページ
次へ
十月下旬、くたびれた秋の日に、春宮玲央は懐かしい田んぼ道を駆け抜ける。暗闇の中で自転車のライトだけが道を照らして、いっそう闇を深くする。小学生ぶりに、およそ十年ぶりに友人宅へ向かう足取りは速い。風を切る。寂しい匂いを焦躁が追い越す。最近は、もっぱら寒くなってきた。  友人の家はログハウスで、当時は皆の憧れであった。佇まいは今も変わらず、お洒落なカフェのような外観。ただ鉄格子が覆っていて、木と鉄が喧嘩をしている最中であった。庭にある大きな犬小屋の前で、友人はキャンピングチェアに座って煙草を吹かしている。 「おう、玲央。かなり久々だな」  立ち上がり、客人にキャンピングチェアを用意した。 「ごめん、ちょっと遅くなった。ここに来るのは小学生ぶりだな。ほんとに」 「確かにね。広くなったでしょ?」 「かなりね。久々過ぎてあんまり原型を覚えてないけど。これなんの鉄格子?」 「ああ、屋根の塗装途中でね」  二人は深く腰を下ろして、煙草に火を点けた。春宮は持ち前のリュックからコロナビールを二本出した。 「龍弥は飲めたかな?」 「いや、俺はいいや」  龍弥(たつや)は真横にある裏口から家の中へ入って行き、お茶を取ってきた。どう誘っても酒を飲む気は無いようだ。もう一度、キャンピングチェアに腰を深く沈め、吸いかけの煙草を咥えた。 「それで、どしたんな急に。鼠講でも始めたか?」 「いやいや、疑われてもしかたないタイミングだけど全然違うよ。ふと会いたくなって。風の便りってやつかな。近々俺たちの内どちらかが死ぬのかも知れない。そうなると虫の知らせになるね」 「急に連絡してくるから、自爆テロでも起こす根端かと思ったよ」 「仮にそうだとしたら、是非是非手伝ってくれ」  龍弥は小学生の時より目尻の皺を増やして、それでも何一つ変わらない笑顔を見せた。 「早めに会いたそうだったから、深刻な悩みでもあるのかと思った」 「深刻かどうかはさておき、悩みは常に抱えているけど、安心して。ほんとに。偶々コンビニの前で煙草吸ってたらいいアイディアが浮かんで、それを実行しただけさ」 「それなら良かった。心配したよ。二人で会うのなんか小学生ぶりだろ?」 「そうだね、中学では全然遊ばなかったな。あんなに一緒にいたのに、不思議だわ」 「言われてみれば中学の時は遊ばなかったな。いや遊んではいたけど、野球部の面々とどこかに出掛けたり練習したりだけだもんな」  春宮は早々、二本目の煙草に火を点けて煙を大きく吸い込んだ。本題に入る下準備のように、大仰な空間を作り出した。あまりに大仰だったのか、芝居掛かっていたのか、龍弥の方が先に口を開いた。 「最近何しとん?」 「一生懸命フリーターしてるよ。世界に対して全く価値のない勉強をしながらね」 「要はフリーターやな」 「そういうこと。シンプルに。龍弥は教員免許とかの勉強してるの?」 「いや、教員免許は大学出た時に一緒に取ってるけど、地方公務員に成るには自治体ごとに色々あってさ。今は学校兼宿泊施設みたいな所で働いてるよ。ほら、小学生の頃に行った所」 「あの宿泊研修の所か。懐かしいな。蝮が出る所でしょ?楽しかったけど嫌な思い出しかないわ」 「玲央なんかやらかしたかな?」 「あのゴリラみたいな女子いただろ?川田だったかな。そういう名前の奴。あいつとその友達が廊下を塞いでギャーギャー騒ぎまくってたのよ」 「あいつな。覚えてるよ。玲央が親の仇みたいに嫌って奴な。それでそれで」 「そうそう、あの喧しい奴。それで俺、思いっきり怒鳴り散らしたのよ。『お前ここ廊下だろ。道を塞ぐな五月蠅いゴリラめ』ってな感じで」 「お前酷いな。あいつ今結構美人だぞ」 「まじか。じゃあ今のは訂正する。『五月蠅い美人ゴリラ』ね。いやそれでね、周りの奴が怒り心頭の俺を見て笑ってたんだよ。でも周りは結構可愛い子ばっかだっただろ?だから恥ずかしくなって、『どけよ』って吐き捨てて堂々と前進したのよ。そしたらその先がなんと、本物の女風呂でした」  龍弥は爆笑して、煙草を吹き飛ばした。見事な曲線を描いて、簡易的でもしっかりとした木のテーブルを超えて春宮のブレザーに着地した。 「おいおい危ねぇ。お気に入りのブレザーが火事になっちゃうよ。起爆しちゃうぜ」 「ごめんごめん。それは面白過ぎる。初めて聞いたでそんな話」  少し焦げたが、幸い黒のブレザーを着ていたので気にする程ではなかった。いつも気の利いた服を着ている割に、春宮は衣服については無頓着だ。 「今でも思い出して恥ずかしくなるよ。結局奴らは、前のクラスが風呂から上がるのを待って順番に並んでるだけだったんだ。しかも女子風呂に繋がる廊下が一本道だからさ、悟った顔の俺が振り返って、大人しく自分の部屋に帰るまで、もう笑われ中継よ。その場で首吊ろうかと思った」 「それは災難やったな。生きてて良かった」  春宮はわざとらしく空になった煙草の箱を見つめて、わざとらしく残念がって見せた。 「煙草全然なかった。急に無くなったわ。どうしよう、買いに行こうか」 「いやいいよ。俺のやつ吸いな。全然あるし、いくらでも吸っていいよ」 「ほんまに?それは優し過ぎる。助かるわ」  春宮は最初から二本しか入っていないのを知っていた。それを確認してから家を出た。端からそのつもりだったのだ。 「俺結構チェーンスモーカーだから、この煙草全部吸っちゃうかもよ?」 「全然いいよ。俺も煙草ぐらいしか出せないから」 「そんな気を遣わんでもいいよ。ほんとに。お気持ちはありがとうだけどね。てかビール開けてなかったわ。いきなり盛り上がり過ぎて忘れてた。乾杯しよう」 「栓抜き持ってるの?」 「栓抜き?ああそうか、これそういうタイプだったな。持ってないわ」 「ちょっと取ってくる」  龍弥はなんの嫌味もなく立ち上がって、同じルートで家へ入った。彼がくれた煙草は以前春宮が吸っていたのと同じメビウスのメンソールで、彼はどことなく嬉しく思ってニヤニヤしながらとりあえず一本頂戴した。  春宮は一つの照明で照らされた空間を改めて見た。春宮は龍弥が出入りする裏口の扉を背にしてる。向かい側、龍弥が座るキャンピングチェアの後ろ側は手入れされていない――今はそういう時期なのかも知れない――田んぼが広がる。春宮の右手には大きな犬小屋の中に二回り小さい郵便ポストみたいな物が寝転がっていて、重たそうにどっしり構えている。敷地の周囲は木の柵で覆われていて、庭であるためには完成度が高過ぎる、洗練された空間だ。この庭の小空間に主として存在する龍弥に、より一層の憧れを抱いた。 「ごめんお待たせ。開けるわ」  使い慣れた様子で、栓を抜いた。春宮は栓抜きを使ったことが無い。 「ありがと。それじゃ、遅くなったけど、再会を祝して」  春宮はコロナビールを、龍弥はペットボトルのジャスミンティーを持ち、優しく乾杯した。 「今までで一番美味いわこのビール。風の便りに従って、龍弥に会いに来てよかったわ」 「俺も嬉しいよ。でも急やったからびっくりしたわ。何かあったんじゃないかと思って。それか鼠講か」 「確かに同年代で久しぶりに連絡取って来て会おうとか言われたら三分の一ぐらいは鼠講だけども。普通に会いたかっただけ。今どんな感じなのかも人づてにしか聞いてなかったし、てか龍弥も俺が何してるか知らないでしょ」 「うん、全然知らんな。俺も人づてに玲央が大学辞めたらしいよぐらいしか聞いてなかった」 「それが伝わってるなら殆ど知ってるようなもんよ。去年辞めちゃって」 「なんかあったん?」 「いや、特には何も無い。寧ろ三年まで順調そのものだったけど、四年で研究室入るって時に、どうも実験が嫌になっちゃって。何百分の一ミリとか、細かいことばっかやってると『俺は今、何をやってるんだろう。蚤と闘ってるのかな』みたいな気分に勝手になっちゃって、まぁ私生活もボロボロだったし、当時仲良かった学年のマドンナみたいなブロンドの子が中退するって言うから、何故か一緒に退学届け取りに行って、お揃いで出しに行って、気付いたら辞めてた。だからこれと言った理由は無いけど、タイミングって感じ」 「ほう、かなりお前らしいな。それで、次は何やるの?」 「おいおい、さすが幼馴染みだぜ。分かってやがる。何故か分からないけど、仲いい友達は皆同じこと言うんだよね。世間体的にはさ、『お前何やってるんだ?大丈夫か?』が正解だけどさ、口を揃えて『次は何するの?』と期待を込めて言ってくれる。良い友人しか持ってないんだなきっと」 「それは玲央知ってる人なら皆言うよ。何かしそうな臭いがプンプンする」  龍弥は言い終わるとほぼ同時に、お尻を浮かして放屁した。 「おいおい、お前が臭ってるじゃないか」  龍弥は笑いながら、もう一度放屁した。 「そんな、紀元前のお笑いじゃないんだから、やめてくれよ、ほんと」  春宮は満更でもなく言った。小学生の頃から龍弥はよく放屁していた。春宮の家で遊んでいた時、彼の母親の前で余りに遠慮無くするものだから、一時期、春宮は母親に「あの子と遊ぶのは控えなさい」と言われていた。それでも毎日遊んだ。隣の田んぼでキャッチボールをしたり、川に飛び込んだり、新作のゲームをして遊んだ。田んぼでカブトエビを大量に捕まえて、バケツにすしづめにした次の日、バケツが血の海になっていて、龍弥は大しかりを受けたことがある。そのバケツの処理を任された二人は、真っ赤に染まるバケツを見つめて――それが本当に血だったのか、あるいはカブトエビから抽出された体液だったのかは、今も謎のままだ――とにかくゲラゲラと笑った。子供は残酷さを知らない。夕暮れ時まで放置して、今度は二人で龍弥の母親に落雷のように怒られた。その日の晩、龍弥は母に「あの子と遊ぶのは控えなさい」と言われた。それでも小学校を卒業するまで、ほぼ毎日のように遊んでいた。同じ保育園からの幼馴染みだ。  春宮がビールを一瓶空にしたところで、先ほどの煙草も空になった。二人で吸うと思いのほか減りが早い。 「ごめん龍弥、申し訳ないけど、他に煙草持ってない?」 「ああ、もう無くなったのか。早いな」 「俺が吸い過ぎかもしれん。ごめんよ」 「心配せんでも、まだまだあるから。遠慮無く吸ってよ」  龍弥は忙しく裏口から家に入った。懐かしい記憶を探ると、ちょうどそこにはキッチンがあるはずだった。いつも玄関からお邪魔していた春宮は、裏口からの景色を見たことがなかった。そもそも、小学生の頃は裏口の前は解放されていなかったのだ。そう思うと、やはり庭全体が大きくなっているのだと気付く。初めて行った町で「この町も変わったな。俺も歳をとった」という慣れ慣れしさを醸し出すように、中学高校の空白をわざと埋めるように、春宮は雲を踏んづけるような、不思議な気持ちになった。 「はい、これ。細いタイプだけど、ピン箱だよ」 「ありがとう。ごめんな余分に持って来なくて。また今度買ってくるわ」 「いいよいいよ。気にせんで」  先ほどのメビウスメンソールの箱の薄さを半分にした煙草だ。確かに煙草が細い。春宮は感謝して火を点けた。龍弥は心の中で〈吸い過ぎだぞ〉と思っていたのか分からないが、紙煙草は止めてアイコスを吸い始めた。しかしそれは嫌味ではなかったみたいで、龍弥は春宮のためのアイコスも持って来てくれていた。春宮はビール瓶を手にし人生初の栓抜きを試みた。 「違う違う、それ真反対よ」 「あ、そうかごめんごめん。全然使ったこと無くて、工学部いたけど」  龍弥は優しそうな目尻で笑った。それは友達と言うよりも、我が子を見守る父親みたいな目だった。二人は歳をとったなと言うには若すぎるが、着実に大人になっていた。 「あれ、消えてる。これいつから消えてた?」 「分からない。ずっと気になってて、その赤いのなんなの?俺ずっと郵便ポストだと思ってたんだけど、違うの?」 「これストーブだよ」そう言って、龍弥は横に置いてあったお手軽な角材を放り込んで、バーナーで火を点けた。 「世間知らず過ぎて全然分からなかった。なんて言うの?ストーブと言うより小型の暖炉みたい。初めて生で薪をくべるとこ見るわ。ずっとそれ前衛的な郵便ポストのオブジェかと思ってた。ほら、犬小屋に入ってるし、現代アートみたいな。理解して見るとますます何から何までお洒落だな」 「うん。外に置くのだったらこういうのが良いかなと思って。めんどくさいけど。というか、これ犬小屋じゃないから。小学校低学年の頃はこの中で遊んでただろう。俺の妹も一緒になって三人でこの中に入ってたよ」 「あれ、そうだっけ。そうだそうだ、思い出した。確かその時はちゃんとした家の形になってなかった?簡単なドアもあったと思う」 「そうだよ。忘れてるのかと思ってびっくりしたよ。かなり遊んでたのに。秘密基地にしてたよね。よく三人も入れてたわ」 「ごめんごめん。忘れかけてた。許して。でも犬小屋と俺が見間違えるのも分かるでしょ。ここに三人入ってたなんて信じられないな。その時はまだゆとりあったし。今入ったら二つの意味で骨折れそうだもんな」 「今入ったら単純に火傷するさ。点いた点いた。これでちょっとは温まるよ」  しゃがれた秋の夜風は、少しずつ強くなっていた。ぽつりと咲いた赤い花は、二人にとって、特に春宮にとって、真夏に干した布団のような安堵と温もりであった。  二人は細いメビウスメンソールとアイコスを交互に吸った。何がきっかけであったか、春宮が始めた世間話がいつの間にかこってりとした政治の話になっていた。まさに専門家とペテン師の狭間、夜風が引く程の熱量で話す春宮に対して、龍弥は引かずに優しく聞き入っていた。 「だからね、俺がずっと言い続けてるのは、今は米中冷戦だってこと。ほんとに。世界史的にはかなりまずい流れだと思うのよ。日本人は傍観し過ぎだよ。平和ボケって言うか、だからこうやって信頼置ける人以外にこういう話すると腫れ物や狂犬みたいに扱われるからね、あんまり普段出来なくて・・・・・・」 「玲央はほんとに物知りよな。同級生でそんな知識ある奴いないよ」 「ごめん。喋り過ぎちゃったわ。でも真摯に聞いてくれる人もいなくて、飲み屋とかで会う五十ぐらいのおっさんおばちゃんとよく喧嘩になるからもう話したくなくなって。こうやってサシで会って話聞いてくれる人いたら余計にね、喋り過ぎる。政治には実際興味ないけど、世界史やってると気になっちゃうから。勘違いして欲しくないのが、知ってるだけで興味はないってこと。それらは必ずしも背反しないかもしれないけど」 「俺はあんまり自分で分からないし情報も取り入れないから、かなりためになるけどな」 「そんなこと言ったら永遠と喋り続けるよ?倒れるまで」  喋り過ぎて疲れたのか、春宮は有言実行はせずにグイと二本目のビールを飲み干した。リュックからキャップが付いた缶コーヒーを取り出し、それを少し口に含むとしっとり落ち着いて、今度は龍弥の話を真剣に聞いていた。二人は同窓会の話から小中学校の話になり、思い出話に華を咲かせた。 「そういえばさ、玲央よ。お前なんであの時辞めたんだ?ほら、県大会前に。お前エースとして誰よりも期待されてたのに。ちょうど春になる頃の、お前の球ほど重く確かなものは無かったぞ」 「それに関しては本当に悪いと思ってる。言ってなかったな。それにも特に理由はなかったんだよ。辞めた後は皆、『音楽に走った』とか『受験勉強だ裏切りだ』って口を揃えて言ってたけど、実際そんなに深い意味はなくてさ、ただ単に辞めたかったから辞めただけなんよ。一番迷惑掛けたのは龍弥だと思ってたけどな。それは今も変わらず」 「そうだったんだな。何となく察してたけどな。ていうか、玲央は野球好きじゃなかったでしょ」 「図星だな。プロ野球なんて一寸も見たことなかったし。ただピッチャーとして特別視されたりチヤホヤされるのがすきだっただけだよ。畜生だよね。ほんと」 「そんなことないと思うよ。お前さんに関しては他にも色々才能あるみたいだったしさ、好きなことやるべきだと思ってたよ」 「泣けるねぇ。視界ぎりぎりの夜の公園でピッチングした仲だわやっぱ。あ、そう言えば思い出した。あれ覚えてる?沖縄の修学旅行の時の」 「修学旅行?何かあったかな」 「あの、帰りの飛行機に乗る前に、バスでちょっとしたインターチェンジみたいな所に行った時さ」 「覚えてないな。何があったん?」 「修学旅行のグループで軽食食べてたんだよ。楽しすぎてね、沖縄が。帰りたくなくて、ひどく駄弁ってたんだ。するとそこにだよ、イケメンの貴公子が真っ白な歯をキラキラさせながら現れて、ぽんっとコンドームみたいなの置いて行きやがったのよ」 「ああ、あれか。もう分かったぞ」  龍弥は真っ白な歯をキラキラさせた。 「最後まで言わせて。そう、もうそれが答えみたいなものだけど、龍弥がさ、コンドーム置いて行ったじゃん。それで俺は一緒に食べてた友達と『多感な時期にしても卑猥やな』とか言って顔を見合わせてそれを蛍光灯に照らしたら、おにぎりの形が見えて、軽食屋の机でだよ、開けてみたらギターのピックだよ。もうドラマよ。あの時ばかりは泣きそうになったわ。先週も思い出して飲み屋で大泣きしてたくらいだよ」 「あれそんな嬉しかったんか。よかったよかった」 「シチュエーションがさ、青春過ぎるやん。バッテリー組んでた裏切り者のその先の夢を応援するなんざ、聖母マリアもニッコリよ」 「言われたら鮮明に思い出すわ。あれな、帰りのお土産屋さんにあって、アイツ音楽始めたらしいから、ちょうどいいと思ってね」 「あれほど嬉しいプレゼントはないよ。未だに使わずに持ってるもん。引き出しのどこかに」 「おいおい、そこまで言ってなくすなよ。頼むわ」  二人は笑い合った。果てしなく笑い合った。空白の時間は、それを自ら埋めるように溶け合った。 「まぁ、人生色々よね。俺も結局高校三年の時に辞めちゃったし。野球部」 「それこそ人づてに聞いてたわ。怪我したんだっけ?」 「それもあるけど、まぁ俺も特に意味は無くてね。教員免許取れる大学目指したかったのと、三年で監督が替わったりして。前の監督には地獄まででも付いて行きたかったけど、新監督とはソリが合わなくて。と言うより、チームメイト誰一人として合ってなかったけどね。そんな状況で故障だろ?深く考えなくても辞めて正解だったよ」 「仕方ないよ。監督との相性っていうか、そういうのって結構あるもんな。タイミングみたいな。あの中学の時の先生は元気してるのかな。山田先生は」 「先々週ぐらいも会ったよ。個人的にね。教員目指しだしてから、何回か行った先の学校とかで会ったりもしてて、その内に個人で飲みに行く仲になってね。今の所は元気そうだよ」 「あの先生にも結局迷惑掛けたからな。辞める騒動の時、電話で説得されて、かなり感動話されて親身になられたんだけど、二言目にはそれでも辞めますって勝手に口が動いてたからな」 「おいおい、それは最低だな。山田先生心配してたぞ。あの人心配事多いんだから」 「辞めてからもなんだかんだ仲良かったけどね」 「あの先生はいい人過ぎるよ。俺な、先生目指してて思うんだけど、山田先生の野球に掛ける熱量ってやっぱり違ってたと思うんだ。なんて言うのかな、他の教師とは一線を画してたというか」 「確かにな、今だからこそ余計思うのかもしれないけど、時間としては凄いよな。朝練にも一番に来てたし、まさに朝から晩までみっちりだったな」 「そう、今は規則とかが変わって、日曜は部活ダメとか、色々雁字搦めなんだけど、そうではなかった時期で言うと、全ての時間犠牲にしてたなと思って。先生がさ、俺たちが三年になる前から急に変わったの分かった?」 「え、全然分からなかった。何か変わったの?俺が辞める前くらいでしょ?」 「そうそう、その時期。これな、あんまり言わないで欲しいけど、ここだけの話ね。個人的に会ったりしてる内に打ち明けられたんだけど、ちょうどその時期にね、俺たちの三つぐらい上かな、それぐらいの先輩が、自殺したんよ。しかもあの進学校の南成高校に行った人。それがね、山田先生の教え子だったらしいのよ。酷いことに原因が指導員のいじめだって。単純にその事実もショックだっただろうけど、山田先生のポリシーというか、野球部というものに対する姿勢がね、レギュラーメンバーじゃない生徒をいかに三年間続けさせられるかってことらしいのよ」 「急にディープ過ぎて鼻水出て来たけど、その話何となく小耳には挟んでたわ。いじめで自殺したみたいな話」 「そうなんよ。そんな感じ。玲央とか俺はずっとレギュラーだったから、後から先生の哲学を聞かされてはっとしたことも多かった。確かにあの人は、声出しとか、ベンチに入れる最後の二枠ぐらいを重要視してたなって。だから先生の一番の目標点は、どんな指導をしたらチーム揃って三年間やり遂げられるかってことなんだよ。言ってしまえば、あの人からすれば、教師のせいで生徒が命を落とすことなんて、最も忌まわしきこと、地球の皮を全部引っぺがして張り替えるくらいには考えられないことだったんだ。それがよりによって大切な教え子だったわけで、それもレギュラー外でも真摯に活躍するような、先生の理想の生徒だったみたいなんだ」 「そうだったんだ。その時期に自分勝手な都合で辞めた俺なんか完全に悪じゃん」 「そういうんじゃないよ。山田先生は全然違うベクトルでお前のこと特に好いてたし。悪なんかじゃ勿論ないよ。でもさ、その一件から先生体調崩したみたいで、病んじゃって。最近はもうバリバリ復帰してるけど、一時期そうだったって。去年ぐらいかな、会った時に改めて聞かされたんだ。もうどうしていいのか分からんって。そんなに一生懸命頑張ってる奴が死んじゃうんだったら、俺がしてることは意味があるのかって。どんなに努力しても、微塵も力にもなれてないんじゃないかって。見たことないぐらいげっそりして、恐いくらいだったよ未だにね」 「なんかなぁ、心苦しいな。俺みたいな腐れ外道からすれば、先生が思い悩むことではない気もするけどなぁ。起こったことは悲惨だけど、管轄外のいざこざで死んじゃったわけだし。少なくとも山田先生の責任じゃないし、背負い過ぎてる気がするけど、当事者はそれは計り知れないだろうな」 「俺も何か助けられないかなと思って。偶にだけど会ってとことん先生の話を聞いたり、そうやって酸いも甘いも含めた教師像をそのまま受け止めて、俺も成長させられたりしてる。教え子が教師になるって、やっぱ嬉しいみたい」 「お前さん、さすがに聖人過ぎるだろ。確かに山田先生のことは心配にもなるけど、そんな教師孝行聞いたことないよ。相変わらず優しいな龍弥は。変わってないな」 「玲央も何も変わってないさ。また機会があれば山田先生にも会わせたいよ。変わらなすぎるお前を」 「そんなことしたらまた先生病んじゃうぞ。まぁ、楽しみにしておくよ」    宴もたけなわ。寒さもいよいよ。温かい昼に対応するための服装に上着一枚追加しただけの二人の格好は、ふと現実に戻った瞬間にかなり暗闇に蝕まれてしまった。縁起の悪いことに、漆の烏が電柱に留まり、死体にエイムするようにこちらを凝視している。  二人は少し名残惜しいように中腰程度に支度しながら立ち上がった。 「ごめんごめん龍弥。二時間ぐらいのつもりだったのに、気付けばもう十一時だ。寒いし、もうそろそろ帰ろうと思うよ。相変わらず家は近いけどね」 「そうだな。この薪ストーブじゃ適わないくらいにはなってきたな。じゃあ、そろそろお開きにしますか」 「わかったよ。あ、そう言えばさ、今日は偶々バイト休みだったし、いい具合の時にちょうど電話くれたから会えたけどさ、改めてまた来週くらいに飲みにでも行かない?ほら、近くの居酒屋とかでもいいからさ」 「それがな玲央、来週はちょうど行けないんだ」 「なんで?平日ならいつでもいいよってな感じで言ってなかった?」 「普段の平日なら勿論行けるんだけど、来週親父の四十九日だから」 「え、親父って龍弥の父さんのこと?あの遊びに行った時によくいた?」 「そう。九月の初めに逝ってしもうてな。元々身体悪かって。でもほら、玲央も知ってる通りかなり頑固親父だったろ?だから病院にも行かなくて。八月に病院に行った時にはもう持ちませんって医者に言われてな。それで・・・・・・」 「ごめん。それは全く知らなかった。そんな時に会うなんて。不思議だな。俺もショックだよ。そんな、今の今まで知らなかったし。小学生の頃とかだいぶお世話になったじゃん。ほら、そんな感じで死んだとか言われるとさ、知らなかったじゃん。何も」  春宮は違う銀河系から見ても分かるほどあからさまに狼狽えた。諦めた殺人犯のように、半ば笑いながら悔しんでいた。キャンピングチェアに、もう一度深く腰を下ろした。春宮は心を落ち着かせるため、龍弥がいつの間にか持っていたショートホープを掻っ攫うように頂戴し、火を点けた。 「そうなんよ。俺も急でな。まさかこんなに早いとは、急だとは思わなかった。姉ちゃんはこっちにいたけど、妹は大学で東京にいて、悪くなってからすぐに帰って来いって言ったんだけど、ほら今コロナとかで、PCR検査しないと帰って来られなくて。それで一週間ぐらい掛かったかな。でもな、親父が死ぬ直前にはちゃんとみんな揃ったんだよ。俺も交代で見舞いに行って、結局死に際にはちょうど仕事で会えなかったけど、姉ちゃんも妹も母ちゃんも一緒にいれたみたいで。それがさ、俺嬉しくてさ。何より、親父が嬉しかっただろうなって。このご時世に関わらずな」  幼馴染みの春宮は知っていた。龍弥ほど強い男はいないと。遊具から落ちても、膝を擦り剥いても、彼女にフラれても、大好きな野球に裏切られても、辛い社会に揉まれても、決して涙を流さず、歯を食いしばって耐え抜く人間だと、知っていた。それは無機質ということではなく、誰にも負けぬ人情を持ちながらそれを完全に制す、そのような人間であることを、近くで、その目で、間近で見て共に生きてきたのだ。その男が、龍弥という男が、顔面の左側にストーブの熱を浴びながらギラギラと泣いている。吸血ヒルに似た、大粒の涙を流して笑っているのだ。目尻に皺を寄せて、子供みたいに。それは涙を隠すためかもしれない。そもそも涙を流していることに気が付いていないのかも知れない。どちらかは分からない。 「よかったやん。それが一番の幸せだったと思うよ。俺はばあちゃんのこと殺そうとしてるのに。龍弥はとことん立派になったな。龍弥の親父って旅好きだったよな。それは良く覚えてる。色んな所行ってはお土産買ってきて、俺ほんとに羨ましかった。一回さ、小学生の時、いつも通り遊びに来たら机の上一杯にお土産が並んでてさ、憧憬の眼差し向けてたら龍弥の親父さんが『玲央君もいるか?』って言って、恐竜の、ほら、発掘したら骨が出てくるやつあるじゃん?あれを俺にもくれて。未だに覚えてるもん。一緒に砂崩して発掘したよね。俺はトリケラトプスで、龍弥がティラノサウルスだった。いつもならティラノサウルスが欲しかっただろうけど、寡黙な親父さんがかなり優しく接してくれてね。即座に宝物になったよ。トリケラトプス。どこに行ったか分からないけど、今でも五臓六腑飛び出すぐらい嬉しかったことを覚えてるよ。嬉しかった」  龍弥は顔を覆っていた。やっと自分が泣いていることに気がついたみたいだ。春宮にとっては大層な話というよりは、いち思い出話のつもりだったが、その一部欠片が直線で心に刺さり、効果は絶大のようだった。  人が死ぬってこういうことなのかも知れない。と、春宮は龍弥を通して初めて感じた。でも龍弥は強い男だ。慰めも、同情も要らないことを知っている。春宮はショートホープを吸い、その長い沈黙を味わった。顔を覆い肩を揺らす龍弥を見て、何故か急に勝ち誇った気分になってきた。春宮はゴッドファザーよろしく大仰に、偉そうに煙草を吹かしてみたりした。先端を切るゴリラの親指みたいなキューバ葉巻を手にして。そして、この世界の悲しみに思いを巡らせた。もし今、龍弥をこの場で殺したら、世界からまた一つ、フィラメントが尽きるような形で、今流れる悲しみという概念はぷつんっと消えるのではないか、と。龍弥が死ぬことによって起こる副次的な悲しみも、例えばそこで悲しむであろう龍弥の姉や妹や母、春宮自身もいっぺんに死んでしまえば、二歳児がレゴブロックを倒壊させるように、宇宙人が誕生日ケーキの蝋燭を吹き消すように、できるだけ簡単な形で、悲しみというものは早急に拭い去られるのではないか。誰も悲しむ人間がいなくなれば、死は恐怖ではなくなるのではないかと。 「玲央、ごめんな。お前の話聞くつもりだったのに、俺が相談乗って貰ったみたいで。なんか恥ずかしいわ」 「ほら、俺元英国紳士だから。これ使って。新品未使用だから」  春宮はハンカチを手渡した。先ほど立ちションベンをした時に密かに手を拭いた物だ。 「ありがとう。洗って返す。ありがと」 「これだいぶ吸っちゃったけど、全部吸っていい?」 「ああ、一本だけ残して置いて。親父が好きだって。そのせいで肺もやられたかも知れんけど、一応毎日仏壇に先行代わりに差してるんだ。好きだったからね」 「了解。それはさすがに頂戴できないな。てか、今までかなり罰当たりだったじゃん」 「いやいや、予備はあるんだけどね。今日の分と思って、それ出してたから一応ね」 「そういうことか。初めて見たかも、龍弥の泣いてるところ。でもスッキリしたんならよかった。改めて今日は会えて良かった。ところでさ、さっき色々考えてたんだけど、今日腹にね、飛びっ切りのダイナマイト巻いて来てるの。ほんとはね、町の方に行って盛大に自爆テロでもやってやろうかと思ってたんだけどね、気が変わっちゃって。ここで一緒に死ぬのはどうかなって。悲しみごと吹き飛ばしてやろう、みたいな。たぶんこの辺一画は飛んじゃうから、あまりこう、半端な死に方じゃないし。そもそも自爆テロじゃないけどね、思想なんか無いからね。上司が嫌だとかいじめられてるとか宗教上の理由とかニヒルとか快楽とか芸術とか、そういうんじゃないからね。勘違いして欲しくないけど。セラピーみたいなものよ。平和に行きましょうっていうね。悲しみを葬り去ろうってな感じで」  龍弥は冗談を言う春宮の不謹慎さを訝しがった。さっきとは打って変わった感情で向き合った。  春宮は最後のショートホープに火を点けて、そのままジッポを手に持った。 「映画とかドラマ見て思うけど、時限爆弾っておかしいと思うのよ。悪者って敢えて主人公に爆弾を解除させるためなのか、あからさまに時間を設けるでしょ。世界が滅ぶほどの爆弾で、それも逃げるまでの時間稼ぎとかいうわけではなく、化学的反応時間の問題かも知れないけど、自殺願望持った破壊主義者ならもっと単純明快にボタンぽちっとで地球と共に自爆したらいいでしょ?それなのにわざわざ早起きアラームみたいにちゃんと時間が設定されてて、『できるものなら解除してみな』って言うんだよ。あれがCGよりも何よりも、一番のフィクション要素だと思うけどな」  春宮はブレザーの隙間から出た導火線にジッポで火を点けた。重厚感のある鉄の音が響いた後、小鳥のさえずりみたいな線香花火が始まった。 「それに関係ないけど、久々に会ったのに飲みの誘い断るのはないわ」  轟音と地響きと閃光フラッシュライトの後に、地球の表面から一区画の悲しみが綺麗さっぱりなくなった。中心はログハウス。世界はまた一つ、悲しみの無い平和な高次元に近づいた。ほんの少しずつ、変わってきている。  焼き鳥になった烏を横目に、ショートホープは羽ばたいていた。月に還るのだ。重力を知ること無く、そのまま秋の夜空を温めて行った。きっとお星様になる。空に開いた穴。空気が漏れないように。ケムるよ。 2020年11月29日
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加