数学学校

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 ねえ覚えてる? 初めて会った時のこと。僕が下級数学学校に着いてすぐ、君の部屋に挨拶にいくと、君はまるで幽霊でも見るみたいに僕の顔を見て驚いた。幼馴染に似てるって。それでだよね? 秘密の場所を教えるって、寮の裏の倉庫に連れて行ってくれたのは。  倉庫は真ん中が分厚い板で仕切られていて、僕が板に乗ると、君はすぐに板の上に立ち、天井に右手をつけるとドアを閉めるように言った。何も見えなくなるよって僕が言っても、いいからいいからって、君は面倒くさそうに返した。僕がドアを閉めたら真っ暗になって、君はすぐに声を上げた、「いくよ、はい!」。そしたらバーンって音がして、天井に一辺四十センチくらいの正方形に切り取られた星空が現れた。君は顔をこちらに向けて舌を出して、悪戯っぽく微笑んだ。僕も君ににっこり笑いかけて、二人で星空を見上げたんだ。  それから僕らは毎夜倉庫で過ごした。君は外の世界のことを僕に訊いた。君は僕と違って、五歳からあそこにいたから、外のことをあまり知らなかった。目を爛々と輝かせて、海ってどんななの? 大きいの? 塩辛いってホント? って、海のことを根掘り葉掘り訊いてきたね。君があんまり真剣だから、僕は思わず笑っちゃった。ごめんね。すごく数学ができるのに、こんなことも知らないと思ったらおかしくって。でも授業が始まって少ししたら、僕は君に頼りっきりになった。思い知らされたよ。小学校では神童だとチヤホヤされてきた僕も、あそこでは凡人だった。  僕らは倉庫で勉強するようになった。懐中電灯で倉庫内を照らして、一つのノートに君が問題を書き、僕が答えを書いた。僕は間違えてばかりだった。でも、君は決して僕の解答を否定しなかった。へぇー、こういう方向から考えたんだ、面白いこと考えるね、なんて言ってから、こういう解法もある、こういう解法もあるって、二つも三つも解法を示した。目を見開き、懐中電灯の光を反射したおでこを僕の顔に近づけて、ときどき舌をぺろっと出して微笑みながら、熱っぽく語る君の姿が、昨日のことみたいに思い浮かぶよ。  あの日のことは覚えているよね。いつものように二人で倉庫に入ると、君はポケットから写真を取り出して僕に渡した。人が写っていたけど、僕には誰だかわからなくて訊くと、君は嬉しそうに答えた、「ほらっ、チェボ予想って、あの百年未解決の問題をこの人が解決したんだ」。その予想は僕も名前だけ知っていた。僕が写真をまじまじと見ていると、君は裏に夢を書こうと言い出した。それで僕は「数学者になれますように」って書いた。君は星空をしばらく眺めてから、「永遠不変の偉大な真理を見出す」と書いた。書き終わると君は写真を壁に画鋲でとめた。そのとき背中を向けたまま君は言った、「ずっと友達でいよう」。僕は驚いたけど、すぐに大きく頷いて答えた、「うん絶対、きっとだよ」  君との別れは突然だった。僕が転入してから一年経った頃、教室に入ると、君が中級数学学校に移ったと聞かされた。実に三年の飛び級だった。先生から封筒を渡されて中を見ると、『こっちで待ってる』と書かれたメッセージカードと倉庫の鍵が入っていた。   それから僕はひたすら数学に打ち込んだ。  半年経った頃、チェボ予想を解決したと宣言していた数学者が論文を取り下げた。証明に誤りがあったという。一流の数学者でもよくあることだ。僕は気にも留めなかった。  君が去ってから二年経ったある朝、政府関係者を名乗る男が僕の部屋のドアを叩いた。飛び級だった。僕はほくそ笑んだ。すでに例の写真は倉庫から回収してあった。  中級数学学校に着くと、僕はすぐに君を探した。廊下や教室など建物内をくまなく見て回ったが見当たらなかった。その日はよく眠れず、翌朝校舎に隣接する林に向かった。  周囲を見回しながら歩いていると、木陰のベンチに君が座っていた。姿形はあの時のままだ。名前を大声で呼びながら僕が近寄ると、君は本から顔を上げて首を傾げた。僕だよ! 僕! 大声を上げても、君の表情は変わらない。虚ろな目でこっちを見ていた。どうしても僕を認識できないみたいだった。それで僕はポケットからあの写真を取り出して、君の目の前に掲げた。君の顔色が変わった。気づいてくれた。僕が喜んだのも束の間、君は写真を右手で払いのけて言った、「そんないかさま師の写真を見せるな」。君は立ち上がると、ぶつくさ言いながらいってしまった。  僕には何が何だかわからなかった。君がふざけているのかと思った。けど、そうじゃなかった。少しして僕にもわかってきた。あそこは前の学校とは全然違った。まともな人間がいる場所じゃなかった。定期テストで下から十パーセントの成績だと即刻退学になった。それで毎年百人くらいの生徒が学校を去った。彼らの半数は社会復帰できなかった。みんな秀才だ。君は三年も飛び級してあの学校に入り、とんでもない秀才達の中で生き残るため、必死でもがいていたんだね。それでおかしくなっていたんだろ? あそこじゃいつでも数学数学で、人間らしい感情なんて、真理の探究を妨げるとしか思われていなかったから。  僕は勉強そっちのけで君を追い掛け回した。僕には落第することよりも、君と話せないことの方が辛かった。でも君は僕を無視した。辛かったよ。あの誓いを君が忘れたと思ったらさ。でも、そうじゃなかったんだろ?  僕が去る時、君は校舎の二階の窓からじっと見ていた。僕が手を振ると、すぐに行ってしまったけど。だけど見たんだ。こっちに背を向ける前に舌を出しただろ? 錯覚じゃない。確かに見た。あの時何を考えていたの? 本当は君だって何一つ忘れちゃいないんだろう? なあ、答えてくれよ。頼むから返事をくれよ。ここはそんなに悪い場所じゃないよ。いつか君がそこから出てきたら、一緒に海に行こう。僕は君をずっと待ってるから。
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