短編

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祖母の住む離島に行くのは、実に5年ぶりであった。 都会っ子の俺にとって、日々過ごしているコンクリートジャングルを離れ、本物の植物にまみれたジャングルでの生活は、さぞかし不便だろう。 まるで心と体が乖離してしまったような思いで船内を抜けると、カモメが群れをなして空を泳いでいた。 彼らたちは、この潮風の匂いをどう感じているのだろうか? 俺には感じられないものを、彼らはどう感じ取っているのだろうか? 三年前、俺は血の繋がった家族を、続けて味覚と嗅覚を失った。葬式の時、涙が一滴も出てこなかったことを鑑みるに、俺はきっと心がない人間なのだろう。 何もない係留施設に着いた船を降りると、太陽の熱が直に俺の頭を焼いてきた。 叔父への連絡のために取り出したスマホは、ヒンヤリとして気持ちいい。 「えーっと…昼を、食べてから、行く…と」  祖母の食事に不満があるわけじゃないが、何故だか、街を一人で歩きたくなったのだ。 メールを送った後、海沿いの道を歩いていると、まとわりつくような風が肌を撫でた。 テトラブロックの上では、暇を持て余した老人たちが釣り糸を垂らして座っている。 これを長閑と言うのか、はたまた虚無感に満ちた景色と言うのか、俺には分からない。 交差点に差し掛かると、向かい側にある建物に、ふと目が行った。 喫茶店らしいそれは、西洋の建物を彷彿とさせる煉瓦造りで、白いウッドデッキが良く映えている。 たまには景色の良いところでのんびりしなさいと、叔父から言われたことを思い出し、俺はその喫茶店で食事を取ることにした。 店のドアを開けると、外観の新しさとは真逆の、良い意味で古い雰囲気が満ちていた。 「いらっしゃいませ」 紺のエプロンを着た若い女性が、その黒髪を束ねながら振り向く。小麦色に焼けた肌は、この島に住む人の証だろう。 俺は外の景色が見える、カウンター席に腰を下ろした。 何食べても味しないんだし、一番安いやつにしよう……と、俺は適当にを注文した。味も匂いも感じないのに、空腹感だけはあるなんて皮肉な話だ。 「お待たせしました。スパゲティセットです」 「ありがとうございます」 軽く礼を言ってから、俺はスパゲティを口に運んだ。 案の定、味はわからない。 味のしないモチモチの麺を食べているのが、どうにも気持ち悪く、真っ黒い珈琲をグビグビと胃に流し込む。 すると 「君、もしかして味が分からないの?」 唐突にそんなことを言われ、珈琲を吹き出しそうになるのを堪える。 「ど、どうしてそれを?」 「だって、それブラックよ?君くらいの子どもが、そんながぶ飲みしないでしょ。しかも入れたての熱々」 たしかに…。 別に隠している訳ではないし、どうせなら言ってしまうか。 俺は最後の一口を飲み干して、身に起きたことを話した。 「へぇ…あなた、見かけによらず苦労人なのねぇ…」 「バカにしてるんですか?」 「してないわよ」 しばらくして、思い切ったように女性が訊ねて来た。 「ところでさ、君の苗字って一ノ瀬だったりする?」 「え、えぇ…そうですが」 戸惑い気味に頷くと、女性は「やっぱり!」と笑みを浮かべると、頼んでもいないのに紅茶を出した。 「これは…?」 女性は、懐かしげな笑みを浮かべる。 「君のお父さんが、よくこれを飲んでたの」 「父を、知ってるんですか?」 俺が思わず席を立って聞くと、女性は短く頷いた。 「あなたのお父さんとは幼馴染よ。顔がそっくりで、まさかとは思ったけど、こんな風に会えるなんてね」 鉛のように重い沈黙が、流れた。その沈黙に耐えかね、俺の手は紅茶へと伸びる。 きっと味は感じられないだろう。  でも、飲めば何かわかるかもしれない。そんな希望を持って、カップに口をつける。  味は案の定しなかった。 しかしそこから、微かに懐かしい匂いが鼻をくすぐった。 もうほとんど記憶にないけど、この香りを俺は確かに知っている。父がよく好んでいた、ほのかに香る  嬉しさと喪失感が混ざり合って、涙となって溢れ出す。やがて俺は何も言わずに紅茶を飲んだ。   喫茶店を出る頃には、夕日が海岸線の向こう側に消えていた。 俺は店を背に、微かに潮風の香る海岸沿いを歩いて行った。
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