第一章 はじまりとほくほくコロッケ

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「さち、さち! どこにいる!」 「はい、旦那様!」  父と知りながら、お父様と呼ぶことのできぬ九桜院(くおういん)家当主の壱郎(いちろう)に呼ばれたさちは、慌てて手を拭きながら走る。 「さちはここでございます。旦那様、何か御用でしょうか?」 「さち、蓉子(ようこ)が明日出かけるから、その支度を手伝いなさい。愚鈍(ぐどん)なおまえなどに頼みたくないが、蓉子の希望だからな」 「お姉様、いえ、蓉子様が私を? 嬉しゅうございます」 「さち、わかっているな?」 「はい、お供するのは屋敷内だけ。屋敷の外には一歩も出ません」 「わかっておれば良い。仕事に戻れ」 「はい、旦那様」  明日になれば大好きな姉に会える。その喜びに震えながら、さちは洗い場の仕事へ戻る。 「さち! おまえ、まだ野菜の下洗いをやってるのかい。 さっさとおしっ! それが終わったら野菜を刻んでおきな。それも済んだら次は床掃除だ。早くしないと(めし)を食べてる時間がないよ」 「はいっ!」  笑顔で返事をしながら、素早く動く。 「さち! 食器の洗い物もやっておいてくれ。ひとつでも割ったら仕置きだからね」 「はいっ!」 「にたにた笑ってばかりいて。このこは本当に、ぼんくら娘だね」 「はいっ!」 「ぼんくらって呼ばれてるのに、笑ってるよ、この子。阿呆(あほう)だねぇ」  使用人たちに笑われているのを聞きながら、さちはなおも笑顔を絶やさない。笑顔を忘れないことは亡き母との約束だからだ。 (どんなに辛くても、笑っていよう。それが母様の望み。笑っていれば、怒鳴り声も止むもの)  笑顔でいることは、さちにとって生きていくための手段でもあった。
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