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「さち、さち! どこにいる!」
「はい、旦那様!」
父と知りながら、お父様と呼ぶことのできぬ九桜院家当主の壱郎に呼ばれたさちは、慌てて手を拭きながら走る。
「さちはここでございます。旦那様、何か御用でしょうか?」
「さち、蓉子が明日出かけるから、その支度を手伝いなさい。愚鈍なおまえなどに頼みたくないが、蓉子の希望だからな」
「お姉様、いえ、蓉子様が私を? 嬉しゅうございます」
「さち、わかっているな?」
「はい、お供するのは屋敷内だけ。屋敷の外には一歩も出ません」
「わかっておれば良い。仕事に戻れ」
「はい、旦那様」
明日になれば大好きな姉に会える。その喜びに震えながら、さちは洗い場の仕事へ戻る。
「さち! おまえ、まだ野菜の下洗いをやってるのかい。 さっさとおしっ! それが終わったら野菜を刻んでおきな。それも済んだら次は床掃除だ。早くしないと飯を食べてる時間がないよ」
「はいっ!」
笑顔で返事をしながら、素早く動く。
「さち! 食器の洗い物もやっておいてくれ。ひとつでも割ったら仕置きだからね」
「はいっ!」
「にたにた笑ってばかりいて。このこは本当に、ぼんくら娘だね」
「はいっ!」
「ぼんくらって呼ばれてるのに、笑ってるよ、この子。阿呆だねぇ」
使用人たちに笑われているのを聞きながら、さちはなおも笑顔を絶やさない。笑顔を忘れないことは亡き母との約束だからだ。
(どんなに辛くても、笑っていよう。それが母様の望み。笑っていれば、怒鳴り声も止むもの)
笑顔でいることは、さちにとって生きていくための手段でもあった。
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