偽作の館

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「もしもし、────── 誰かが僕を尋ねる声が聞こえた。そこを振り向くと、老年の男性がいた。力強い白髪をもった男だった。その額と眉間には、思考の研鑽の痕が見て取れた。が、僕が注目したのは彼の手だった。年相応の疲れた手をしていた。が、そこには確かなる歴史を感じることができた。  特筆すべきは、人差し指の爪と指戸の隙間に染み込んだインクである。これにより、彼は、万年筆で、虚構の中の真理を描くものであることが推察させられた。  僕は、どういった言葉を話すべきか分からなかったので、とりあえず 「こんばんは」 と、七度程の浅い会釈をまじえ、挨拶をした。 「パーティーは肌に合いませんでしたか」 と、老人は尋ねた。 「すみません。パーティー自体はとても楽しいのですが、どうも人混みにあてられて・・・」 と僕は返事した。が、内心では会の途中で帰ることすら考えていた。 「わかりますよ、その気持ち。我々は、仕事柄か、人柄か、蓋し後者の為でしょうが、こういった場は、慣れないうちはかえって苦痛なことも珍しいことではないです。あなたも文壇に長く残れば、そのうちこの瘴気じみた緊張感も悪くないと思えますよ」 と、老人は話した。僕は彼の気遣いに心が安らぐと同時に、彼の科白の美しさに或る感銘を受けた。この荒涼たる、偽作の大地にも素晴らしい先達は残っていたのだな、と或る種の、ノスタルジーを感じ、ポエティックな酔いを知覚した。
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