出逢う

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出逢う

 ——腹、減ったな……  一羽の天使が、人間界の森の中を彷徨っていた。 もう三日、ろくに食べていない。  その天使の名は、リシュエル。……またの名を、四枚羽の異端児。  普通、天使の羽の数は二枚だ。ただし、一番位の高い天使だけは六枚羽がある。四枚羽の天使も存在するにはしたが、天界のはるか東にわずかに存在するだけで、リシュエルとは全く違う。早い話が、リシュエルは「出来損ない」だった。  昔から、リシュエルは一人ぼっちだった。悪魔とのあいのこと影で噂するもの、特別な存在として畏れるもの。とにかく、誰もリシュエルと進んで関わろうとはしなかった。それでも、リシュエル自身独りでいることが別に苦ではなかったし、むしろ気楽に感じていたから特に問題はなかった。そんなリシュエルだから、ある日ふらふらと人間界へ降りていっても、誰も気にするものはいなかった。  天使の姿は、人間には見えない。だが、リシュエルは都心にとどまろうとは思わなかった。  空気は悪いし、騒々しいし、夜でも暗くならないし、何より人間たちの魂は醜くて耐え難かった。息もつけないほどの醜悪な世界から、なんとかして逃れようとふわふわと羽ばたきながらあちこち探すうち、ようやく鬱蒼とした森を見つけ、リシュエルはその外れに降り立った。  森の中は空気も綺麗で、静かで、動物たちの魂は人間たちより遥かに清らかだったから、ようやくリシュエルは深く息を吸い込むことができた。  だが、リシュエルにはひとつ、大きな誤算があった。食べ物である。天使は人間のように大量にエネルギーを必要とはしないが、天界に流れる蜜と果物を摂取することで、その存在を保っている。リシュエルは完全に興味本位で人間界に来てはみたものの、人間たちが食しているものを口にしてみたところ、不味くてとても食べられたものではなく、すぐに吐き出してしまった。  以来、もう丸三日、何も口にしていない。さすがの天使といえど、身体に力が入らなくなってきていた。 「……?」  森の中を彷徨い歩くうち、遠くにキラッと光るものが見えた。近寄ってみると、泉だった。手ですくって恐る恐る口に含んでみると、天界の蜜に比べれば味は劣るものの、飲めないほど不味くもなかったので、とにかく飲んだ。エネルギーとしてはごくわずかしか補給できなかったが、ないよりはましだ。飲み終わると、疲れ果てていたリシュエルは、そのまま横たわり、眠りに落ちた。  ……夢を、見ていた。天界で、誰かと遊んでいる。  ——俺に友達なんか、いなかったはずなのに……  と、見る間にその子の足元から炎が吹き上がり、あっという間に炎が全てを飲み込んでしまう。  熱い。  熱い。  熱い……! 「……! おい! 生きてるか!」  誰かに乱暴に揺さぶられて、意識がふっと浮かび上がった。視界が回っている。身体が酷く熱くて、同時に酷く寒い。 「目が覚めたか? お前、ひどい熱で倒れていたんだ」  低い声が心地よい。気持ち悪さと怠さを堪えて目を開けると、視界に飛び込んできたものにリシュエルは悲鳴を上げて飛び退った。……のは、気持ちだけだった。指一本、動かせない。頭が感じたことのない痛みで破裂しそうだ。  そして、リシュエルの目を覗き込んでいたもの。それは——悪魔だった。 ***  時は遡り、一刻ほど前のこと。リシュエルが泉のほとりで眠りに落ちた頃、一匹の悪魔が、魔界から森の中へ彷徨い出ていた。リシュエルは知るはずもなかったが、この森はその地方で「悪魔の森」として知られ、恐ろしい伝説が数多く語り継がれる、人間は誰ひとりとして近づかない有名な森だったのである。人間が近づかないことで森の中は動物たちの楽園となり、この悪魔——ルーヴストリヒトにとっては、気に入りの散歩場所であった。  悪魔もまた、伝説に語り継がれるように好んで人間の血を啜ったり、子供をさらったりするわけではなかった。中にはそうした悪趣味なものもいて、そうした連中が伝説の元になっていたりするのだが、魔族の大半は魔界の果物や動物の肉を食べて、平和に生活していた。ルーヴストリヒトは中でも変わり者で、人間界のこの森へ出てきては、鳥の歌や、木々の会話を聞くのを楽しみとしていた。  この日も、繁殖期を迎えつつある鳥たちの愛の歌を聞きに森へ出てきたルーヴストリヒトは、これまでに感じたことのない生き物の気配を感じ、足早にその方角へと向かった。そして、泉のほとりに倒れている、「それ」――昔話でしか聞いたことのない、天使にそっくりな、ただし背中には羽の四枚生えた、その生き物を発見したのである。  天界との大戦争の話は、年老いた悪魔たちが酔っ払うと必ず話に出てきたから、よく知ってはいた。だが、本物の天使を見るのはもちろん初めてであったし、そもそも、なぜ天使がたった一羽で、人間界のこんな森の外れに倒れているのか。  だが、近寄るにつれ、そんな疑問は吹き飛んでしまった。明らかに、この天使は瀕死であった。触れると火傷しそうなほど熱く、すぐに手当てしてやらなければじき光に還ってしまうだろう。天使は全魔族の敵であり、何よりルーヴストリヒトにとっては、父であるルシファーに瀕死の傷を負わせ、天界から追放した仇であった。だが、なぜかこの天使を放っておくことが、ルーヴストリヒトにはできなかった。強烈に心を突き動かすそれが、何なのかルーヴストリヒトには分からなかった。それでも、とにかく助けなければ。そう思った。まずは夜露をしのげる、乾いた洞窟へとその天使を運んだ。それから、怪我をした時などに魔族が食べるブラッドベリーをひとつかみ、大急ぎで魔界から取ってきた。だが、天使は一向に目を覚まさない。  ——このまま、死んでしまったら……  なぜか、ルーヴストリヒトはこの天使が目を開けるところを、どうしても見たかった。その瞳は、何色をしているのか。どんな声で、話してくれるのか。自分の目の前で光に還ってしまうのだけはなんとしても防ぎたくて、一か八か、目を覚まさせようと声をかけ、身体を揺すった。すると、天使のまつ毛が震え、それからゆっくりと、そのまぶたが持ち上がった。琥珀色のその瞳は、しばらく焦点が合わなかったが、ルーヴストリヒトの顔を認識するや否や、その目が恐怖に見開かれた。  ——あ、あ、あ、あ、悪魔……!  リシュエルは、悪魔という存在を、話にしか聞いたことはなかった。遥か昔、神に逆らい、堕落した天使が天界を追放され、悪魔となったと。いまリシュエルの視界いっぱいに広がっているその姿は、まさに話に聞いた悪魔そのものだった。黒い髪、尖った耳、二本のねじれた角、吸い込まれそうな、夜空のような漆黒の瞳。だが、リシュエルの思っていた悪魔と全く違う点が、一つだけあった。悪魔はその気性を表すように歪んでいて醜いものだと聞いていたのに、目の前の生き物は、これまで見たことがないほどに美しかった。大きく切れ長な双眸、すっと通った鼻筋、形の良い唇。自分に危害を加えようとしているのかもしれないのに、リシュエルはその美しさから目を離すことができなかった。 「俺を、食うの……?」  ぜいぜいと息をしながら、リシュエルがようやく口を開いた。ルーヴストリヒトはため息をひとつつくと、リシュエルの口元にブラッドベリーを押し当てた。 「これ、食べて。話はそれからだ」  訳がわからないまま、リシュエルは口をあけ、ブラッドベリーを口に含んだ。歯を立てると、中からわずかに渋みのある甘い果汁が口いっぱいに広がり、その濃厚な香りと味にめまいがしそうだった。だが、その味は天界の果物と比べても遜色なく、久しぶりに口にする美味な食物に、あっという間に最初の一粒を飲み込んだリシュエルは、口を開いて「もっと」とねだった。一粒、また一粒と飲み込むうちに、次第に身体が温まってきた。満足いくまでブラッドベリーを食べ終わると、リシュエルはまた眠りに落ちていった。
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