見てないし、わからないし、覚えてない

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***  孝史郎(こうしろう)がそこを通りかかったのは、必然であった。なぜなら、その道を通らなければ購買にたどり着けない。自炊など早々に挫折したものだから、避けようもない道だった。  道の端で、男女が言い合いになっている。穏やかな様子ではない。その証拠に、そこを通る学生たちは皆一様に彼らから距離をとっていた。普段ならば、元気のいいことだ、と通りすぎてしまうところだが、返して、という聞き覚えのある声に、思わず立ち止まった。なつめだ。  見れば、男子学生の方が何やら右手に光るものを持っている。なつめは女性にしては背の高い方だが、男女の差は残酷だ。どんなに手を伸ばしても届かないようだった。  大学生にもなって、幼稚なからかい方をするものだと心底呆れた。その一方で、彼女には男にそうさせるだけの魅力があることも知っていた。真面目で、潔癖で、すぐにむきになるから、実にからかい甲斐がある。そして、怒った顔が、本当に可愛い。この世で一番、それをよくわかっているのは自分だという自覚が、孝史郎にはあった。  彼女にそういうことをしていいのは、ぼくだけだったのに。  なつめが離れて行ってしまったのは自分のせいだと自覚しているのに、そんなことを考えてしまう。我ながら身勝手で酷い男だと思う。
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