綾の涙

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綾の涙

帰りの電車の中で綾は疲れて眠ってしまった。隣の僕にもたれながら。その腕にはイルカのぬいぐるみがしっかりと抱かれている。水族館を見終わった後お土産屋さんで買ったのだ。本当に12歳の子供らしくて微笑ましい。 結局駅に着いても綾は眠そうだったのでおぶって帰った。小柄な綾の体は思ったより軽くて楽だった。 「お父さん」 背中の綾が寝言で呟いた。仲が良かったという父親の事を夢で見ているのだろうか。綾の今の環境を思って胸が痛くなった。この子はこれからどう成長してゆくのだろうか。 帰宅してベッドに綾を寝かし、傍らにイルカのぬいぐるみを置く。綾と一緒に暮らすようになってからあまり本が読めてなかった。久しぶりに図書館でも行くかなと思い立ち、借りていた本をバッグに詰めてバスに乗った。書き置きをしてきたから綾が目が覚めても大丈夫だろう。 図書館に入ってすぐ何となく児童書コーナーが目についた。今度綾と一緒に来てみるのも悪くないかもしれないな。あの子は本が好きだろうか?僕があの子くらいの年には何を読んでいたんだっけな?と昔話や童話のコーナーで綾に持って帰ってやろうと適当に何冊か借りた。家で二人静かに本を読むのも悪くない。 それにしても、子供の頃の事を思い出したせいか、あまり深く考えると良くないことまで思い出してしまいそうだった。だから記憶を追い払うようにいつもの文学書棚で太宰を選んで読むことにした。読書に集中していると他の事を忘れられるから良い。とりわけ対象が好きな作家であれば尚更だ。それからいつもの如く時間を忘れるように本の世界に浸っていると一時間二時間と過ぎていった。気がつくと窓の外は暗くなり初めている。そろそろ、帰ったほうが良いかな。もしかしたら綾は目を覚ましてお腹を空かせているかもしれない。 気になっていた日本神話の研究書を何冊か追加で借りて帰路についた。家の近所で夕飯用の買い物を済ませて帰ろうと思いながら。何となく察しているだけだが、綾は両親のネグレクトで普段まともな食事をしてなかったのではないかと思う。だからせめて自分といる間くらいは野菜とかタンパク質を充分に摂らせてあげたかった。そのため自然と普段より食材選びに気を使うようになった。 「ただいまー」 部屋は出てきた時のまま暗かったのでまだ綾は寝ているのかなと思って冷蔵庫に買ってきた物をしまっていると、静かに綾に使わせている部屋のドアが開く音がした。 「・・・・」 静かに部屋から出てきた綾は無言で少し涙で目が光っている。どうした?と声をかける間もなく勢いよく抱きつかれた。僕は驚いて包丁とキャベツを取り落した。静かに綾は泣いていた。声を押し殺すような泣き方だった。 僕は瞬時に彼女が泣いている理由を悟った。 (やはり一人残しておいたのは失敗だったか) 「ごめんな。寂しかった?」 「置いていかれたかと思った」 「本当にごめん。ちょっと図書館に行ってただけだよ」 僕は君の両親とは違う。とは口に出せなかった。だけど心の中ではそう思っていた。 「もう一人にしないで」 それはずっと心の中にあった綾の叫びだったのかもしれない。 「分かった。一人にはしないから。本当にごめんな・・・」 綾の小さな背中を撫でながら泣き止むまでそうしていた。この瞬間に僕の中には綾を守ってやろうという決意が生まれた。まだ会って数日しか経っていないのに随分色んな事があったような気がした。そして彼女は僕にとって特別な存在になりつつあった。 しばらくして綾が落ち着いた頃僕はお茶を淹れて二人で飲んだ。取り乱したのが恥ずかしいのか綾は卓袱台の向かい側で居心地悪そうにしていたが、僕が借りていた児童書を取り出すと、喜んでいた。 「これ、読みたかったやつだ」 そしてパラパラっと捲って楽しそうに読んでいた。僕も借りてきた本を読む。ちょっとしたハプニングはあったものの、思っていた通り二人で本を読む事ができて良かったと思う。 「綾は本好きなの?」 「うん。最近は結構図書館にいたよ」 聞けば公園の他に図書館くらいしか行く所がなかったらしい。確かに家に居場所がない子供にとって図書館はいい所なんだろうなと思った。 「じゃあ、今度一緒に行こうか」 「うん。そうだね」 そしてその日はそのまま二人で静かに本を読んでいた。お互いが捲るページの音だけが部屋の中で聞こえていた。
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