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荊州南陽郡。
後漢における中心部に位置するため、異民族の襲来も少なく平和な地。
三十七もある県城は高い水準で文化が発展し、更に、長江の中流域ということもあって、肥沃な土壌が一面に広がり、農業も盛んとなっている。
自然、この周辺に住む人間はおおらかな性格となり、ある種の甘さともとれる懐の広さをもっていた。
北方三城南方七城と呼ばれる城砦群が郡治である宛城を守っている。長江から枝分かれした大小さまざまな支流が存在しているため、大軍が進むのに向いていない。それを解決するために整備された大軍用の軍用道路が敷かれていた。
宛城へと続くその道路は、朝暘県の県城が入口のすぐそばに建っている。
そして、新野城と穣城、育陽城と安衆城、涅陽城と棘陽城。この三組の城が街道の東西に配置されており、街道の防衛に当たっている。いざ敵がこの街道を使って郡治を襲おうとしても、この三組の城から波状攻撃を敵に仕掛け、最終防衛線である宛城の守備兵でとどめを刺す、という防衛策が作られていた。
北方の三城は南方の七城が敵を抑えている間に敵襲の報を知らせるための備えである。
そのように万が一の事態にも備えていた。
備えていた、はずだった。
しかし。
黄巾軍の中方長である張曼成の指揮のもと、北方三城は封鎖され、南方七城はあっという間に攻略された。
穏やかな時間を過ごし、おおらかな人間となってしまった南陽郡の将士たちは、決死隊として敵軍の横腹に突撃をかけることができなかった。
結果、宛城は無傷の黄巾軍六万を相手どることとなり、南陽郡太守褚貢は黄巾軍に突撃を敢行して壮絶な討ち死にを遂げた。
褚貢は死の間際、南陽郡を攻略する黄巾軍の総指揮官である張曼成の心を攻め、張曼成の進軍を停止せしめた。
そして、その数か月後。
秦頡という男が宛城に忍び込み、張曼成を暗殺した。
褚貢と秦頡。
この二人は辺境で勇名を馳せた将、皇甫規の副官として共に戦場を駆けまわった二人でもあった。
しかし、南陽郡の黄巾軍もただでは転ばない。
張曼成が進軍を停止している数か月の間に、南陽郡の諸城は全て黄巾軍によって落とされた。
三十七の各城は兵の大部分を黄巾軍に徴集された。
その結果、宛城に駐屯する黄巾軍は十五万にまで膨れ上がっていた。
総大将である張曼成が討たれたとはいえ、指揮官の数はまだまだ多い。
中方長に韓忠と趙弘。小方長には張曼成麾下の張万、石盾、我災。趙弘麾下の孫夏、孫仲、仲必。韓忠麾下の欺柱、洲完、漫形。
十一人の指揮官と十五万の兵。
それに対抗するのは後漢軍の将、朱儁だ。
豫州潁川郡を寇掠していた黄巾将波才を降し、その軍勢を吸収する形で朱儁の軍に取り込んでいる。
朱儁麾下の部隊長は武略に秀でた男、孫堅。詩人、張超。文武に明るい二代目、徐璆。そして、若手ながら苛烈な性格で評判を得た名門の跡取り、曹操。曹操の下には軍団指揮を経験したことのある若者が揃っており、それぞれが小隊長として兵を率いている。それぞれ、夏侯惇、夏侯淵、曹卲、曹純、袁術、丁布、紀霊、張勲、陳宮、顔良、文醜、許千代、波才こと曹洪。そして曹洪が波才として活動していた時期に部下にした悪来、萌新、李用。
部隊長四人と、小隊長十六人。指揮官相当が二十人と兵数四万五千。
黄巾軍と後漢軍の最大戦力の激突の幕が、上がろうとしていた。
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