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「これはこれは小黄門殿。わざわざ………? ん? どうしてそっちからいらっしゃって?? え、まさか汝南に!? あ、伝令の行き違い。ひえええ」
あちゃー、という表情で皇甫嵩は王郵を出迎えた。
態度は軽薄だが、一切説明を行っていないのに、王郵が現れた方角から、事の次第を読み取ったらしい。
それを聞くと皇甫嵩の侍女である紀孔は即座に飲み物や軽食を支度する。
案内された幕舎の中でまずは、と持ってこられた湯飲みを受け取りながら、王郵は柔らかい笑顔を浮かべた。
「いえいえ。平時ならばともかく、今は戦時。本陣を移動していくのも必要なこと。気にしてはおりませんとも。この度は朱公偉、そして皇甫義真の両名に命が下りました。………ところで、朱中郎将殿はどちらに?」
「へ? あーいえ、あー、そうか。伝令と入れ違ったんだっけ。では小黄門殿。まずは報告を。現在、潁川、汝南を鎮定した我が軍は、豫州の騒乱を落ち着けたということで他の州を鎮めに動きました。隊を二つに分け、朱公偉は荊州の南陽郡に。我が隊は兗州で混乱の予防を行った後、冀州に向かおうとしていたところです」
「―――――――――」
その報告に、王郵は絶句する。
洛陽で下された命令とほぼ同じ内容だったからだ。
大陸を動き回りながら転戦を繰り返すには戦略が必要だ。
戦場で勝つために必要な戦術とは全く異なる才能が必要になってくる。戦場で軍を動かしながら部隊の一手先二手先を読み、それと同時に軍の一手先二手先も読まないといけない。
そのためには常に、自分の戦場とは関係のないまったく異なる地の戦の絵図も頭の中で描き続け、情報を集め続けなければならない。
高域を見渡す視野の広さ。集めた情報を整理する情報処理能力。そして何よりも、戦略的にものを見れる発想力。
それらを高い質で備えて初めて可能となるのだ。
また、戦略を練ることを得意とする人間が戦術を不得手とすることは往々にしてよくある。大陸を見渡すような視点で物事を見る人間にとっては戦場ひとつの細かな戦術など目に入り辛くなるのも無理はない。大まかに『勝った』『負けた』がわかれば戦略は練れるのだ。
象が蟻を見ることが難しいように、なかなか両方に卓越したものというのは生まれない。
その点、実は皇甫嵩にしてみても戦略をしっかりと描いているわけではなかった。
黄巾軍が停滞している状態だからこそ、大まかな優先順位に従って動いているにすぎない。黄巾軍がもっと洗練された軍団であったなら、皇甫嵩は現場判断を極力少なくし、洛陽に指示を仰いでいただろう。
それをしなかったのは時間切れが訪れる前に黄巾軍を無力化したいがためだった。
「さすがは皇甫威明と共に戦場を駆けまわった神童ですね。では、皇甫中郎将殿はこの書簡には何が記されていると思いますか?」
王郵が懐から出した書簡を揺らしながら問いかけてくる。
「んん。え、多分普通に冀州に向かえ、じゃないです? 広宗の張角と張梁ぶっ倒して、とか」
「お見事です。ほぼ当たりですよ」
王郵は驚いたように目を丸くしながら、書簡の封を切った。
じゃら、と音をたてて書簡が開かれる。
「王子師殿に豫州の平定を引き継いでください」
「おお。後任は子師さんになったんですね。了解です」
「王殿は豫州刺史に任命されることとなりました。この権限を使って、太守、県令たちと協力して事の収束に当たってもらいます」
刺史。
州に一人配属される長官だ。軍権をもたないので、軍権をもっている太守よりも軍事能力は低い役職だが、代わりに太守や県令を告発する権限をもった監督官としての役割が主となっている。
洛陽は王允を豫州の目付け役として置き、皇甫嵩という主戦力を自由にすることにしたのだ。
「刺史かー。………子師さんが刺史」
「………はは。さすがは皇甫中郎将殿。面白いことをおっしゃいますね。さて。あなたには早速広宗攻めの準備に取り掛かってもらいます」
「ういす」
皇甫嵩は短く返事をすると、幕舎から出て行こうとする。
「皇甫殿」
そんな皇甫嵩を、王郵が止めた。
「王子師殿は黄巾将を逃がしました」
「管亥ですよね。知ってますよ」
皇甫嵩が振り返り、答える。
「その失態を犯した王子師殿は官職を与えられ、あなたは使い走りのように次の戦場に向かわされる。それを不満には思わないのですか?」
そう尋ねられ、皇甫嵩は目をぱちくりとした。
「はあ。不満。いやまあ、行政やるのとか苦手だし。それに、子師さんに与えられた役職は褒美じゃない。ただ、必要だから与えただけでしょう。落ち着いたら代わりの人が入るんだろうし。だから別にそういうのを不満とは………。そりゃ、またそこに十常侍とか配置しようものなら、キレますけどね」
「………………皇甫殿。私は小黄門です。十常侍にも近い人間なので少しは弁えてください」
皇甫嵩の遠慮のない物言いに、王郵は呆れたような目を向ける。
「わっはは。聞かなかったことにしといてください」
笑ってまた歩き出そうとする皇甫嵩に、もう一度王郵が口を開く。
「では、褒美はいらない、と?」
「褒美?」
「ええ。あなたに、叙勲のお話が来ています」
「はあ」
叙勲。
後漢では二十段階の爵位がある。
これをニ十等爵と呼び、第一位から第八位までは庶民に与えられる爵位であり、実は国の慶事などで国民に対して爵位を配るので、罪人や奴隷、商人などの特別な職に就いている人間以外、男は皆が爵位をもっていた。
しかしそれもここまで。
九位からは官秩六百石以上の官位に就いている人間しか受け取ることができない。
官秩六百石とは州刺史の給与である。
少なくとも、地方の最高先任者にまで上り詰めないと与えられないものなのだ。
(てことは九位かな)
王允に実務的な報酬を、皇甫嵩に名誉的な報酬を与えるといったところだろうか。
正直大袈裟な話だが、それでももらっておいて悪いことがあるわけではない。
九位の五大夫などはそれこそ呼び名が少し偉そうになる程度のものだ。
叙勲されるということは貴族になるということであるが、この当時の貴族は封邑、つまり領地が与えられるわけではない。爵位と引き換えに罪の減罪ができる、特例時の税の減免が申し訳程度に与えられるといった程度のことだけである。
ちなみに、十九位の列侯。そして二十位の関内侯にまでなると、封邑をもらうことができるようになり指定された地区の民が支払った租税を収入として得ることができるようになる。
十九位や二十位にもならないかぎり、爵位をもっているというのは犯罪歴がないことの証明、程度のものなのだ。
「では、ありがたく頂戴します」
皇甫嵩はそう言って王郵に向き直り、拝礼する。
その直後。
陣内に皇甫嵩の驚愕の悲鳴が響き渡った。
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