第3章 やっぱり愛されたい動物

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「よ!オットコ前!」 葉子さんが囃し立てる。場の空気を和ませてくれる先輩に鼻の奥をツンとさせながらも、俺は雰囲気の一変した神田さんから、目を離せないでいた。 「じゃ、いってきまーす」 カバンを引っ付かんで部屋を出て行く神田さんの、巻き起こした風を感じながら、俺はただ呆然としていた。 「大丈夫よ。神田さんがなんとかしてくれるから」 「……はい」 「よし、テンション上げよう。バラエティはアゲアゲで行かないとね! あ、アゲアゲ死語か〜」 「い、いえ、すみません! アゲアゲでお願いします!」 葉子さんは、うちのチーフADだ。正確に教えてもらったことはないけれど、歳は5コくらい上。天然っぽいうねりのある栗毛を無造作に後ろで結わえ、何もかも小ぶりな目鼻立ちの化粧っ気のない顔に、モスグリーンのセルフレームの眼鏡をかけている。制作室のデスクで仮眠を取るときは、この眼鏡が頭の上に乗っかっている。そんな不安定なバランスで、眠っている間によく落とさないものだと感心するけれど、そこまで熟睡できるはずもないというのが、本当のところだろう。 服装は月の9割方はジーンズ。トップスは毎日変わっているみたいだけれど、いつも上に羽織っているオレンジ色のウインドブレーカーの印象が強すぎて、あんまり覚えてない。 チーフは、あまり小言を言うタイプの女上司じゃない。たぶん、あとで小言を言わなくても済むような指示を出しているのだと思う。とにかく仕事が早くて、機転が効く。そしてそれを自負する様子もない。 このチームのバランスの良さは、今日までの仕事で十分わかっている。少しくらい神田さんがいなくたって、場を回せるだけの機転と力量が葉子さんにはあるし、それが許されるくらいには、演者さんたちとの信頼関係もできている。 「行こっか、善之助!」 いつの間にか戻っていた能美センパイが、俺の肩をポンと叩いた。振り返るとやばいくらいの笑顔。センパイはそれ以外何にも言わないけれど、事情は知っているに違いない。空気を読んでくれているのだろう。
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