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ここヘ来ると、己の迷い悩みなど、小さなものだと思えるようになっていた。
溢れる水は、結晶化した手のひらから流れ出ていた。
美しい眼差し。優しい、母性を思わせる微笑み。
ほんの少し前まで、彼女は動いていた。
何も知らぬ自分に、あちらの世界のことを教えてくれていた。
結果、結界付きの結晶などに封印されることになったが、彼女は最後の瞬間まで微笑んでいた。
「ラウジュ…、教えてください」
あなたの存在は、どんなものでしたか。
禁忌と知りながら、人間との間に子を産み、その世界に残してきた。
キールウィラは、その足元に広がる水面に語りかけた。
答えなど、もう得られないとわかっていても。
「僕は…この世界で…何を守ればいいんですか」
美しい姿はもう何も語らない。
眩い光を見つめ、目を閉じたキールウィラはそのまま立ち上がる。
目元を拭うと、その静かな顔を眺め、立ち去ろうとしたその時だった。
「…?」
水面に、何か影が映っていた。
近付いてみれば、幼い子供が映し出されていた。
「子供…?」
茶色い髪。玄族の色彩に似ているが、何か妙だった。
見たこともない衣服。
音は聞こえない。
その子供は、こちらを見上げている。
まるで母が子を見るような視点で、それは映っていた。
「え…」
まさか。
そんな事が。
「ラウジュ…?」
顔を見上げれば、結晶の中で、静かに微笑んでいた。
「これが…あちらの世界…?」
だとすれば、いま映っているのは。
「ラウジュ…あなたの…?」
守りたかったもの。
更にのぞき込もうとして、不意に、光は消失した。
「あ…!」
「そこで何をしているのだ、キールウィラ」
背後で呼びかけられたのはほぼ同時だった。
見れば、長老がユースベルを引き連れ立っていた。
「お前にはここに出入りすることは禁じていなかったか…。まあよい、話がある。…ユースベル」
名を呼ばれたユースベルはどこか堅い表情をしていた。
「あの…?」
修練のことだろうか。
それとも、儀式の。
「キールウィラ、お前には必要がないと言ってきた修練のことだが」
「…はい」
目を閉じ、次の言葉を待った。
意に反する事態を、予感していた。
「お前に、このまま修練を続けることを認める」
「…はい。…え」
思わず、ユースベルの顔を見ていた。
何を進言したのか。難しく思っていた思いが、叶うとは。
「キールウィラ。まだ話がある。…儀式のことだ」
長老は静かに続けた。
「お前の最後の修練が修了した時点で儀式を開始する。お前の儀式の御供だが、このユースベルを正式に決定した」
「…え」
長老は、今何と言ったのか。
ユースベル。
「まさか、御供の意味は分かるな?キールウィラ」
「…は…い…」
御供というのは、『増やすもの』に必要不可欠な存在。
生殖相手だった。
自分と、ユースベルが。
「ユースベルより、お前の修練は逐一報告されている。あと、残るは一つだったな。ユースベル」
「はい」
「よい。時は一刻を争う。キールウィラ、より一層励め」
言い残すと、長老は一人消えていく。
眉根をわずかに寄せたユースベルを残して。
「…」
「…」
静かな水音が耳に触れていた。
「キール」
「師匠」
呼び合ったのはほぼ同時だった。
「何だ」
「何ですか」
「いや、お前から」
「師匠こそ」
お互いに、沈黙に戻るには簡単だった。
複雑な思いを抱いているだろうことは十分に理解できていた。
「ぼ…」
キールウィラは、震える唇を開いた。
「僕が相手だなんて、師匠もついてない。もっと、別に可愛い子がいるでしょう…」
もっとも、『増やすもの』が激減していることは知っていた。
減り始めた血族を充足するためにも、一番若く、能力が高いものが優先されることも。
だが、まさか。
「相手が…『男』の僕なんて…」
「…キール」
伏せた視界の中で、ユースベルが近づく気配がした。
ふと、長い指先がキールウィラの顎を持ち上げる。
「……っ」
薄紫の瞳が、真っすぐに見つめていた。
咎めるわけでもなく、諫めるわけでもないその瞳は、若干揺れていた。
その動揺は、手に取るように分かった。
「し、…師匠?」
間近に見るユースベルの端正な顔は、なぜか見知らぬ他人のように見えた。
「?」
「俺では不満か」
「…え…」
「不満か、と聞いている」
「い、…いいえ」
「そうか。ならば、俺はお前を抱く。お前が望むように快楽を与え、お前に与えられるだけの精を注ごう」
ユースベルの整った唇は淡々と告げる。
「キール」
見上げた薄紫色の双眸は熱く、キールウィラを見つめていた。
「……っ」
返す言葉を失って、キールウィラは熱くこみ上げた息を飲んだ。
「お前は、どうする。…何を望む?」
ユースベルは今にも噛み付きそうに、キールウィラを見つめている。
「キール」
「ぼ、僕は…」
手を握りしめ、切望する願い事に、唇に力を込めた。
「僕は、男であることを忘れたくありません…!」
ユースベルは僅かに目を瞠ったようだった。
「僕の…僕の男である性器には触れないでください。できれば…、いや、絶対に」
それが『男』を忘れない為にどう影響するのか自分でも理解できなかった。
「…約束、してくれますか。…ユースベル」
キールウィラは名を呼んでいた。
誓いのように。
見つめたユースベルの顔が、近づく。
「…!」
瞬く間に、唇をその唇で塞がれていた。
「…ぁ、ん」
知らなかった。間近にいた男の唇は、こんなにも熱かったのか。
自分に、これほど優しく触れるなど。
キールウィラは、無抵抗のまま、ユースベルの与える快楽をただ受け入れた。
「そういえば、ここで何をしていた?」
ふと、唇を解放したユースベルが口を開いた。
「ここはラウジュの近親者のみ立ち入ることができるはずだが」
「彼女は、ラウジュは僕の母と姉妹の関係です。つまり、僕は甥ということになる」
「…そうか」
「結晶化する直前まで、僕は彼女にあちらの世界について教えてくれました。…向こうに残した子供についても」
「長老たちが血眼になって探す禁忌…か」
「そうです。僕は、彼女の守りたかったものが何なのか、ここへくれば僕が守りたいものが何なのかわかるような気がして、ここへ来ました」
結果的に、幻のような風景を見た。
一瞬だったけれど。
「僕は…、儀式が始まってもここへ…」
来るつもりだと、言うつもりだった。
「あれは?」
その異変にユースベルも気づいた。
水面に、影が揺れていた。
「!」
そこに映るのがラウジュの子だとしたら、まずい。
キールウィラは、ユースベルが近付くよりも先に集中していた。
「!キール、おまえ…」
音を立てて、水面は変化した。
結晶化した水面には、もう何も映っていなかった。
ユースベルは、手を翳した。
結晶化を解くつもりなのは分かっていた。
その指先に薄紫色の光が灯る。結晶化した水面だったものに触れるか触れぬかの距離で、その指先は止まった。
溶ける事はなかった。
「キール」
「わかっています。でも、僕も譲れない」
それが、やがてこの世界との別れになる原因になるとしても。
「ユース、長老に、伝えてください。僕には、もう、修練することはないと」
まだ、僕には理解できていなかった。
それが、僕の中に芽生えた思い、守りたかったものが何なのか、到底、理解できなかった。
長老の元から戻ったユースベルが僕を解き、その腕に抱かれて、快楽に溺れていたことは、その後も忘れることはなかった。
僕が、守りたかったものを忘れなかったように、その指の感触も、熱も、僕が何処にいようと、忘れることはなかった。
終
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