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薄暗い照明の下、アルバイトの青年がカウンター越しに空になったグラスを下げる。
「さっきと同じの貰える?」
村山は相手を見上げる形で声をかけた。
白いシャツに黒いエプロンをつけた青年は、返事をせず村山を見つめている。
「今日はずいぶん飲まれるんですね。何かあったんですか?」
いつもと変わらない平坦な口調に、村山はふっと笑みをこぼした。
「ふられちゃった。」
青年は少しだけ目を見開いたようだった。
「驚いた、そういう言葉聞くなんて。」
「ここはバーなんだから、お客さんからそういう話よく聞かされるでしょう?」
「あんたから聞くとは思いませんでしたよ。恋愛してたなんて驚きです。」
平坦な口調で、失礼な言葉を吐く男に、村山は笑う。
「僕だって人の子だよ。まあ、恋愛してたとは言えないね、何もしないまま終わっちゃったんだから。」
「……中学生かよ。」
「まあ、そのころから成長してないんだろうねえ。」
男は前かがみになるとカウンター越しに村山に顔を寄せ、小さな声で囁いた。
「慰めてあげましょうか。」
村山はカウンターにもたれかかっていた上体をとっさに起こし、身を放す。
「加持君、優しいんだね。ありがとう、その気持ちだけで元気出たよ。あはは。」
加持はため息を吐くと村山に背を向け、冷凍庫から氷を取り出し、棚に並んだボトルに手を伸ばした。
加持がシェイカーを振る手つきを、村山はぼんやりと見つめる。
長くてきれいな指だと思う。
実験する姿を初めて見た時にも、印象に残ったのはその指だった。
「どうぞ。」
加持はシェイカーからボトルに液体を注ぐと村山に差し出した。
「だいぶバーテンダーも様になってきたね。」
「ただの猿真似ですよ。ここ、本格的なバーじゃないし、こんなバイトに作らせるくらいだから。そもそも俺、ホールスタッフとして入っただけですし。店長に教えてもらってはいるけど、本職にする気ないですよ。」
グラスに口を付けた村山が首をかしげる。
「これ、さっきとちょっと違くない?」
「バージン、ノンアルコールですよ。あんた、飲みすぎです。」
「……」
村山は首をすくめる。
20歳近く年下の教え子に諭されてしまうとは。
「俺、あと15分で仕事上がるんで待っててください。」
真正面から言われ、村山は目をそらす。
「あ、でも僕そろそろ帰らないと。」
慌ててグラスを空にする村山に、加持は自分のスマートフォンを握らせる。
「え、ちょっと。」
「これ俺の全財産です。片付けして帰り支度する間、預かっててください。こんないかがわしい飲み屋に放置していったら、俺がどんなトラブルに巻き込まれるかわかりますよね。あと、持ち帰ったら窃盗で訴えます。」
加持は言いたいことを言うと、村山が言葉を返す前に、テーブル席にいる客のオーダーを取りに行ってしまった。
店長がそっと村山に近づく。
「すみません、預かりますよ。あいつに良く言い聞かせて返しますから。店員のしつけがなってなくて申し訳ない。」
店に通うようになってから、もう5年以上経つだろうか。
店長との付き合いはそれなりに長く、村山の職業も、加持との関係も知っている。
「悪く思わないでやってください。あいつ、本気なんですよ。」
取りなすように言う店長の言葉を村山は笑って受け流す。
「いや、大丈夫。迷惑しているわけじゃないんです。ただ、今時の若者の駆け引きに慣れてないというか、かわすのが下手というか。」
「いい子なんですよ。」
手際よくグラスを下げ飲み物を作る加持を顎でしゃくり、店長が困ったように笑う。
「分かってます。」
村山はうなずく。
分かっている。彼はとてもよい学生なのだ。
加持は自分のゼミ生ではないが、講義や実験で顔を何度も合わせている。
ずば抜けて優秀というわけではないが、そつなく課題をこなし成績も悪くない。
口数は少なく、悪ふざけなどはしない、良くも悪くも目立たない学生だ。
行きつけのバーに従業員として働くのを見た時は、一瞬目を疑った。
真面目でおとなしい印象の地味な学生が夜の繁華街、しかもゲイ御用達の店で働いているとは。
6年間の学業にかかる費用は、決して安くはない。
アルバイトで学費を賄う学生も少なからずいる。
しかし大学側はそのことをあまり奨励しない。
実験や研究レポートで学業は多忙を極め、国家試験の準備もある。
「家、経済的に厳しいの?」
店で鉢合わせた翌週の授業で顔を合わせた際、声をかけてみた。
「まあ、余裕はないです。うちは母子家庭だし。でもあそこで働いているのは、お金よりもむしろ自分の精神的な部分が大きいですけど。」
「精神的……」
「常連客なんですよね?あそこがただ酒飲むだけの場所じゃないって、先生もわかってて、店にきているわけでじゃないですか。」
看板すらまともに出していない、ひっそり奥まった路地裏にあるカウンターバー。
一人で酒を嗜む客もいるが、出逢いを求める男たちが集う場所でもある。
店の従業員に誘いをかける客だって少なくない。
違法ないかがわしい商売をしているわけではない、だが決して健全な店とも言えない。
村山自身、何度か店で知り合った相手と一夜を共にしたことがあった。
教え子が働く手前、軽はずみな行動は最近は控えているつもりだが。
「仕事も週末の夜だけだし。勉強とは両立させます。」
大学での加持は、礼儀をわきまえた学生だ。
それが店では毒舌で斜に構え、村山との距離をぐいぐいと縮めてくる。
当初は戸惑ったが、自分自身を開放できる場所で、同類である村山に親近感を覚えているのだろうと解釈した。
店で「あんた」呼ばわりするのは、おそらく村山の立場を慮ってのことだろう。
仕事を上がり、着替えを済ませて出てきた加持は普通の学生だ。
「お待たせ。」
「加持君、お腹空いてない?」
「空いてます。」
「じゃあ、らー…」
「ラーメン屋はいいです。」
「あれれ、嫌いだった?じゃあこの前悪いことしたね。」
以前、仕事中に腹が鳴っているのが聞こえたので、何時に仕事が上がるのかを尋ね、店の外で待ち合わせたことがあった。
そのままラーメン屋に連れて行き食事をさせたのだ。
勤労学生を飢えさせては可哀想だと思い、善かれと思って連れて行ったのに、気に入らなかったとは。
「じゃあ何食べに行く?この時間空いてる店って限られているよね。」
「別に食事を奢らせるために誘ったわけじゃないんですけど。」
「でも、今日、お金ないんでしょう。」
村山はスマートフォンを背広の内ポケットから取り出し、加持に差し出した。
「全財産、忘れないうちに返さなきゃね。」
「金がないなんて言ってませんよ。」
「でも、さっきスマホが全財産って。」
「今時電子マネーは常識ですよ。交通系カードだって入ってます。」
「じゃあ、電車に乗るのも困らないね。駅まで送るよ。」
食事を撤回し、帰宅を促す。
「駅には行きません。帰るつもりないです。」
「ええ、帰らないって……」
村山は眉間にしわを寄せる。
普段はここまで面倒な絡み方をしないのに、今日の加持はどうしたというのだろう。
「俺は食いたいのはラーメンじゃなくてあんたです。慰めるってのは、よしよしって頭撫でて励ますんじゃなくて、身体で慰めたいって言ってるんです。」
加持の長い指が村山の手首をつかむ。
逃げを打つタイミングを失い、村山は俯いて立ち尽くす。
「そんな露骨に言わなくても…」
「言わなきゃあんたは鈍感なふりしてのらりくらりとかわすだろ。」
「僕はさえない中年だよ。」
「さえないかイケてるか決めるのは俺です。そんなの主観なんだから。俺だって別にイケメンじゃないし。」
村山はため息を吐く。
どうすればこの場を丸く収めることができるのか。
「学生に手を出すなんてセクハラで訴えられる。ようやく手に入れたポストなのに。」
「訴えません。合意でしょ。それに、未成年じゃないから淫行条例にも触れません。」
村山は頭を抱えてしまう。
若気の至りを甘く見てはいけない。
若者の言葉を本気にしてもいけない。
「なんで君みたいな若い子が僕に食いつくかね。」
「あんたこそ、俺に気がないならなんで店に来るんですか?」
「もともとあの店は僕の行きつけだったんだよ。」
「俺の勤務日だってわかっていて、なんで今日来たんですか?しかも振られたとか言って、酔っぱらって拗ねた顔して、どう考えても誘ってるでしょ。」
「誘ってなんか……」
言いかけて、村山はふと口を噤む。
小さな小石が投げ入れられたように胸の奥底に波紋が広がる。
「ごめん、確かに構われたいと思っていたかも。寂しかったんだよね。いい年して何やってるんだろうね。」
「年齢は関係ないですよ。」
「この歳で教授のポスト手にして、仕事も充実してて、自由な暮らしを満喫して、自分で選んだ道なのに、なんだって寂しいんだろうね。」
空を見上げると、ビルの合間から僅かに欠けた丸い月が覗いていた。
「自分一人じゃ満たせない気持ちだってあるんじゃないですか。俺は寂しいあんたに付け込みたいです。」
「君はそれでいいの?」
「わからないです。でも、一線を越えるには他にないでしょ。あんたは寂しさを紛らわせるために俺を利用して、俺はあんたの淋しさに付け込んで自分の欲を満たす。ギブアンドテイクだと思いますよ。」
加持が山村を掴んでいた手を放す。
「必要なければ帰りますけどね。」
「今時の子はサバサバしてるね。」
「そうですかね。」
加持が少し寂しそうに笑う。
そんなドライな子ではないのだ。
きっと、重荷にならないようにと、割り切った顔をしているのだろう。
さっきまで掴まれていた手首が、急に心許なく感じる。
「……君が今夜一緒にいてくれたら、うれしい。」
それだけ言うのが精一杯で、村山は加持の顔をまともに見ることができず、踵を返す。
「マンション、こっちなんだ。歩いて30分くらい。電車だと10分もかからないんだけど、もう終電、出ちゃったと思うし。」
「酔いを醒ますのにちょうどいい距離ですよ。」
大通りを抜け、住宅街に差し掛かったところで、加持は再び村山の手を取ると、低い声で話しかけてきた。
「ところでタチですか、ネコですか。」
「え、路上でする話題かな。」
「他に歩いてる人いないし。後で揉めると困るでしょ。」
「うーん、どちらかと言うとタチかな。君は?」
「タチです。バリタチ。」
「ええ…じゃあ、お手柔らかにね。」
「いいんですか?」
「年上が譲らないとね。腕力じゃ勝てそうもないし。」
夜道を歩いていることに村山はほっとしていた。
明るい部屋で向き合っていたら、とてもこんな話題耐えられない。
「あんた今まで、その……初めてですか?」
「……それは、その……自分で確かめて。」
「わかりました。じゃあ、検証と考察は後で。」
「……」
「……」
街路樹の葉が風に揺れるのを、待宵の月が照らしていた。
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