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9.【0-1】A Time for Love ①
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本編第1話の前に当たる話を新たに書きました
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「よっ、久しぶりじゃん。」
フィールドわきで靴ひもを結びなおしていると、松木は背後から声をかけられた。
フットサルのチームメイト、神原だ。
元ホスト、今はウェブデザインを手掛ける会社を立ち上げた、ちょっと変わった経歴の持ち主。
「営業で表彰されたってな。」
「誰に聞いの?」
「亜弥ちゃん。」
突如出された元カノの名前に松木は軽く固まる。
彼女が自分の仕事の情報を手にしていることにも、それを話題に神原とやり取りしていたことにも、居心地の悪さを覚える。
「…連絡、取ってるの?」
「いや、SNSでつながっている程度だけどね。」
「俺、そんなこと伝えてないのにな。振られて3カ月以上たつし。」
仕事で忙しく、連絡さえまともに取らずにいたら逃げられたのだ。
「まあ、女心の未練だろ。」
神原は軽く笑って流すと足元に転がってきたボールを蹴った。
昔の彼女のちらつく影に、松木はため息を吐いた。
自分が幸せにできなかった彼女に、幸せになってほしいと願っているのは事実だ。
彼女に寂しい思いをさせて悪いことをしたとも思っている。
だが、未練はこれっぽっちも感じておらず、彼女の存在すらすっかり忘れていた。
自分は薄情な人間なのだろうかと、気が少し咎めた。
「仕事、上手くいってるんだろ、その割には浮かない顔。新しい彼女作ったら?」
「女は当分いいや。今は仕事が面白いし。」
「ははっ、仕事が忙しいからって、それを言い訳に恋愛しないようなつまらない人間になるなよ。」
「それってホスト時代からのモットー?」
松木は笑いながら神原に返し、アップを終えると立ち上がった。
体を動かしシャワーを浴びると、心地よい疲労感とさっぱりした爽快感で気持ちが前向きになる。
練習を終え、松木は神原とロッカールームでしばらく世間話をした。
「神原君って、変わってるってみんなに言われたりしない?」
「言われるよ。俺からすれば、俺が普通でみんなが変なんだけどね。俺はそもそも『みんな』とか、胡散臭いマジョリティーは相手にてないけど。」
「神原君のそういうところ、好きだなー。」
「そう言ってくれる人間と、『お前のそういうところ嫌いなんだよ』って言う人間と、半々いるよ。」
水商売で様々な人間を観察し、人生経験は人一倍豊富なのだろう。
「俺の職場、ずっと営業トップを走ってきた先輩がいるわけね。その人、まあ、ちょっと個性的な人なんだよね、一匹狼っていうか、協調性はない人なんだ。」
普段なら言わない職場の愚痴を、松木は神原に相談したくなった。
「いいじゃん、俺、気が合いそー。」
「今回、俺がその人を初めて抜いて、トップになったわけ。そしたらさ、みんな喜ぶわけよ。俺が頑張ったからじゃなくて、その人がトップから蹴落とされたことを喜んでいるわけ。それで、もやっとしてさー…。」
うんうん、と神原が頷く。
松木は営業部長に呼ばれた時のことを思い出していた。
「お前、やるじゃないか。お前の今回の結果、本当にうれしいぞ。」
部長の言葉に、松木は当初誇らしく感じたのだ。
「やっぱり営業には人間力も大切なんだよ、空気を読んだり、周りを立てたり、きちんと意思疎通をするような、な。」
「…は、はい…」
「飯島もこれまで天狗で仕事してきたが、少しはいい薬になっただろう。あいつにひとこと言ってやれ、お前の口からも。」
「え、何をですか?」
「だーかーらー!!お前みたいなコミュ力も営業には必要だってことだよ!」
部長は笑って言った。
松木は笑う気になれなかった。
むしろ飯島に伝えるべき言葉は、謝礼なのだ。
飯島に営業の本質を気づかされて初めて達成した成果なのだ。
松木は周囲に褒めそやされる度に心が沈んでいった。
社員は一様に、松木の営業成績が飯島を上回ったことを喜んでいる。
『あいつ、どんな顔するんだろう』と陰で意地悪く笑っている。
その日ほど気分が落ち込んだ日はなかった。
「もちろんその人だって欠点はあるけどさ、仕事に関しては俺たちより一つ上の次元にいるわけ。なのにみんなそのことに気づきもしないで、俺に無理矢理ふんどし履かせて相撲を取らせようとしている、みたいな?…俺がどんな気持ちでその人を見ているかも知らないでさ。」
「なんだ、その喩えは?」
神原は笑ってツッコミを入れながらも、松木の話に耳を傾ける。
「なんだっけ?まっちゃんの営業って特殊な業界だったよね。EDっつったっけ?」
「MR!人の仕事を勃起不全にするなよ、わざと言ってる?」
「まあまあ、まっちゃん、そいつら多分さ、本当はその先輩みたいになりたいわけよ。でも自分でもそのこと気づいてなかったり、気づいてても認めたくなくて、『酸っぱい葡萄』みたいにそいつのことこき下ろすことで自尊心を保ってるみたいな、さ。」
「ああ…確かにそういう感じかも。」
「まっちゃんは、そういうレベルの低いアホに嫌気がさして、その人の側に行きたいんだろ。」
「別に、みんながアホだとか思ってないよ。部長はアホだなって思ったけど。その先輩も、ちょっと極端なところはあって、見倣いたいところもあるけれど、ちょっとついていけない部分もないわけじゃないし。」
「その先輩ってひょっとして女?それも美人の。」
「いや、そうじゃないって。勝手に妄想するなよ。」
「ふーん、まっちゃんの同僚がアホなのかと思ったけど、まっちゃんもアホなところあるしさ。その先輩に入れあげちゃってるのかなって。あばたもえくぼ、蓼食う虫も好き好きって」
「アホか。ったく。」
神原と話ができてよかった、と松木は感謝する。
元カノの話題を振られた時には勘弁してほしいと思ったが、久しぶりのオフに、フットサルに顔を出して良かった。
松木は自分の気持ちを整理する。
飯島は確かに社内では癖のある人物として煙たがられている。
だが、飯島の仕事は本物だ、たとえ周囲に理解されていなくても。
営業成績トップなんてものに一瞬でも浮かれた自分の愚かさを思い知る。
もちろん、営業成績がトップになったという事実は悪いことではない。
自分の仕事に結果が出せたという達成感があるし、尊敬する飯島に自分も一歩近づくことができた気がする。
改めて飯島の仕事ぶりを見つめ、松木は気づく。
飯島は自分の営業『成績』なんてものに、そもそも全く興味を持っていない。
最先端の情報や新製品を、必要としている人間にどのような形で届けるかを、自分の使命として極めようとしているのだ。
開発研究者にはこまめにやり取りをしているし、営業先への訪問も熱心だが、先方の都合をきちんと見極めている。
要するにバランスの問題なのだ。
社内の人間関係を構築することを一切放棄しているが、その代わり仕事をする上で必要な相手との意思疎通はきっちり抑えている。
社内の飲み会をはじめ社交の場には一切参加せずとも、学術論文に目を通し、必要な学会には熱心に足を運んでいるのだ。
徹底した仕事ぶりで、すでに何回か、難攻不落と言われた病院に自社製品を新規採用に漕ぎつけている。
なぜ彼の優秀さに誰も気づかないのだろうか。
ちょっと観察すれば、飯島がどれほどの誇りと情熱をもって仕事に取り組んでいるか、すぐ解るはずなのに。
誰も彼も、飯島の人付き合いの悪さと数字面での営業成績しか見ていない。
松木は何とも言えない苛立ちを感じた。
「上半期、大活躍だったな。」
給湯室横の自販機の前で飯島に声をかけられ、松木はうれしさで舞い上がりそうになった。
営業成績が発表されたときは、飯島は全く関心なさそうな態度だったし、自分から何か飯島に言葉をかけるのも、調子に乗っていると思われそうで躊躇われた。
「飯島さんに、仕事の本質を教えていただいたおかげです。」
思わず飯島の手を握っていた。
「いや、俺は別に何も…その手、何?」
「俺、飯島さんの仕事に対する姿勢、すごく尊敬しています。これからも飯島さんの背中を追いかけたい。もちろんいつか肩を並べられたらって思いますけれど。もっといろいろ話を聞かせてほしいです。」
「俺は話すことないけど。」
「別に、秘訣を教えろとか情報よこせとかじゃないですよ」
松木は笑う。
「飯島さん、飲み会とか来ないし、なんか謎めいているじゃないですか。もっと飯島さんのこと知りたいんですよ。人間として。」
「ただの変人。みんなそう言ってるだろ。」
「変じゃないです。尊敬すべき先輩です。そうだ、飯、行きましょうよ、これから。晩飯、予定なければですが。」
「勤務時間終わってるのに仕事の話するの、嫌なんだよね。飯が不味くなる。」
飯島が顔をしかめる。
「ああ、そりゃそうですよね、わかります。仕事の話はNGで旨い飯食いましょう。飯島さんのプライベート、知りたいです。」
「え、余計話すことないけど…。おごり?」
「もちろん。こちらから誘ったんですから!何がいいですか?」
飯島は和食を希望し、松木は何回かデートで使ったことのある、小洒落た店に連れて行った。
「わざわざ個室取らなくたって…」
「たまたま空いていたんですよ。別にオプションかからないし。がやがやした雰囲気より静かなほうが、ゆっくり話せるでしょう。」
掘り炬燵で足を延ばし、グラスにビールを注ぐ。
「普段は何飲まれるんですか?」
「うーん、ビールかな。日本酒とかワインはちょっとだけ。」
「へえ。好きな銘柄は?これでよかったですかね。家飲み派ですか?それとも行きつけのお店とかあります?」
飯島は始めこそぎこちない態度を示していたものの、松木を拒絶するでもなく、少しずつ普段は見せない表情を見せ始める。
「あ、これ、美味しいな。」
酔いが回ってきたのだろう、ほんのり顔を赤らめ、機嫌良さそうな声で呟く。
料理を口に運んでは顔をほころばせる飯島に、松木はいつの間にか見惚れていた。
「飯島さん、なんでそんな可愛いところ、仕事中は隠しちゃうんですか?」
「なんだ、その『可愛い』ってのは?だいたい仕事の話はしない約束だろ。」
飯島は露骨に顔をしかめる。
「すみません、でもみんな飯島さんの本当の姿わかってない。誤解してます。」
「…じゃあ聞くけど、お前は俺の何を解っているわけ?」
「あ…すみません、わかった口利いて。」
食事にOKしてもらったからとは言え、やはり調子に乗りすぎたと反省する。
だが、松木はそれでも自分の気持ちを伝えずにはいられない。
「でも、飯島さん、わざと周囲を遠ざけてますよね、壁作ってる。別に変人じゃない、本当は一緒にいて楽しい人なのに。」
「楽しい?」
「楽しいです、こうやって一緒に飲むの。俺はすごく楽しい。飯島さんは…その、楽しくないですか?俺と話すの、つまらない?」
飯島は箸を止め、視線を泳がせた。
暫しの間を置いた後、口の端をゆっくりと持ち上げた。
「…楽しいよ、うん、楽しいなあ。はは。」
いつものちょっと不機嫌そうな表情や、先ほどまで食事を愉しんでいたのとは、打って変わった表情が現れる。
「あのな、松木。みんなに本当の姿なんて知られるわけにはいかないんだよ。俺、ゲイだから。」
飯島は手元のグラスを一気に呷りビールを飲み干すと、ニヤリと笑った。
「え、あの…」
「人に言えねえだろ、営業先にだって知られたら敬遠されるだろうし。会社にバレたら、ババラッチとか、面白おかしく吹聴して回るだろうなあ。」
「すみません、俺は言いふらしたりするつもりはないし、その、知られたくないことを無理して聞き出そうとしているわけじゃ…」
「ゲイなんざ今時珍しくもないと思うけどな。恋愛対象が男ってだけで、別に女装とかの趣味はないんだぜ。」
「わかってますよ、大学の友達にゲイもトランスジェンダーもいたし。別に偏見とかないですよ。誰かを本気で好きになったら、性別とか関係ないですよね。うん、俺もそうです。」
優等生のような答えを返す松木を、飯島は鼻で笑う。
「ふん、俺の場合は逆だけどね。相手が男ってことが重要で、心が伴わなくても肉体関係持っちゃうし。」
「え、ああ、そうなんですか…」
「そういう経験ない?」
飯島は息がかかるほど顔を松木に近づけ、囁くように問いかける。
「いや、その…」
「まあ、もっと飲めよ。俺もこうやって腹を割って話したんだし、お前の恋愛観も聞かせろよ。お前がうちの部署来てから、女子社員みんな浮き足立っちゃって、鈍感な俺でもわかるくらい。」
飯島は珍しく饒舌になり、不気味なほど満面の笑みを浮かべ、松木に酒を注いでくる。
(俺、からかわれてる?)
飯島がどこまで本心なのか分からない。
しかし嘘をついているわけではないことを、松木は確信していた。
飯島は、嘘を吐くには不器用すぎるのだ。
不器用さ故に周囲から誤解を受け疎まれている。
松木はそんな飯島に切なさともどかしさを感じる。
誰も知らない飯島の素顔に近づいたことに心が騒めき、手を伸ばせば届く距離に飯島がいることに胸が高鳴る。
手を伸ばしたら——飯島は、自分の手を振り払わずに取ってくれるのだろうか。
まるで恋の駆け引きをするように、ポーカーフェイスを取り繕い、飯島と酒を酌み交わしながら当たり障りのない話題を再び振る。
飯島を放したくない、このまま引き留めてずっとそばにいたい、もっと距離を縮めたい。
もう一軒付き合ってもらえないだろうか、雰囲気が盛り上がるようなバーにでも誘ったら断られるだろうか。
会計を済ませながらそんなことを思いあぐねていると、ちょうど店を出たところで飯島が振り返り、唇を重ねてきた。
羽が触れるような、雪の結晶がすっと掻き消えるような、淡いくちづけ。
(この人が、欲しい。)
かっと頭に血が上り、理性が焼き切れた。憧れも尊敬も、もはや跡形もなく消えていた。
後先など考えられなかった。
体が勝手に動いていた。
「このまま帰したくない。」
腕を引き寄せると、飯島の身体が倒れこんできた。
松木の腕の中で、飯島が小さく頷いた。
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