春との再会

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 新幹線の窓枠に肘をつき、ぼんやりと外の景色を眺める。すでに首都圏は遠ざかり、目に映るのは茶色い田んぼと土産物の看板ばかりだ。  あの後、諦めきれずに商店街を行ったり来たりして、それでもやっぱり「おしゃれの店ハル」は見つけられなくて、もちろんコーヒーショップでコーヒーを飲む気にもなれず、私は未練を振り切るように新幹線の駅へと直行した。  がっかり。悲しい。残念。寂しい。ショック。どんな言葉も、今の気持ちに表すにはどこか足りない。  楽しい旅の最後にこんな苦い結末が待っているだなんて、行きの新幹線に揺られていた時には思いもしなかった。  思い出の一部を削り取られたような喪失感。大げさかもしれないけれど、そのくらい、「おしゃれの店ハル」は思い入れのある店だったのだ。  あの町に住み始めて、すぐに行くようになったわけではなかった。しばらくは店の前を素通りしていた。なんせ、「おしゃれの店ハル」だ。名前からして全然おしゃれじゃない。どうせウエストがゴムのズボンだとか、お尻まで隠れる丈のセーターだとか、そんなオバサン向けの服を売る店なんだろうと決めつけて、目を向けることすらしなかった。  ところが、大学にもあの町にも慣れてきたある秋の日、ふと、店のショーウィンドウに展示されたバッグが目に留まった。それは黒地に白の水玉模様がデザインされた、キャンパス地の小さなトートバッグ。  足を止めてよく見ると、水玉はきれいな真ん丸ではなくて、でこぼこして一つ一つに表情がある。それに、水玉模様だけでなく、崩した字体でアルファベットも描かれている。どうやら英語ではないようで、意味は分からない。ブランド名か何かだろうか……。 「それ、ちょっと素敵でしょう。イタリアのメーカーなのよ」  その声に振り向くと、店の入口に、杖をついた丸顔のおばあちゃんが立っていて、にこにことこちらを見ていた。  それがおばあちゃん──春子さんと、「おしゃれの店ハル」との出会いだった。  「ゆっくり見て行ってね」というおばあちゃんの柔らかな声に誘われて、私は初めて「おしゃれの店ハル」の店内に足を踏み入れた。そして、自分の想像が全くの思い込みだったことを知った。「おしゃれの店ハル」はオバサン向けの衣料品店ではなく、バッグや小物を中心とした、いわゆるセレクトショップだったのだ。  店のメインターゲットも中高年女性ではなく、二十代から三十代の働く女性のようだった。当時の私のような大学生向けでもない。それは、品良く落ちついた中に遊び心を忍ばせるデザインからも、お高めの価格帯からも知れた。  分不相応だというのに、私の心はどうしようもなく高鳴った。宝箱を見つけた、と思った。  それから、週に一度は「おしゃれの店ハル」に顔を出すようになった。  いつもいつも何かを買うわけではない。むしろ買うのはほんのたまにで、たいていは、あれも素敵これも素敵と、バッグをうっとり眺めているだけだった。実家からの仕送りで暮らす大学生に、一万円を超えるようなバッグがポンポン買えるはずもない。  そんな、ほとんど冷やかすばかりの客なのに、店の人達は嫌な顔一つせずに迎えてくれた。何度か通ううちに、店はあのおばあちゃんと、その息子さん夫婦が切り盛りしているということがわかってきた。  と言っても、おばあちゃんはどうやら半分引退しているようで、いつも店に出ているわけではない。真っ白な髪と顔中の縮緬皺を見るに、八十歳に届いているように思われた。それに、腰か足を悪くしているらしい。店に出ているときも、レジの後ろの椅子に座り、足元に寝そべる大型犬の頭を撫でながら、息子さん夫婦の接客をにこにこと見守るのが常だった。  けれども私が顔を出したとき、おばあちゃんがいれば、必ず私の相手をしてくれた。杖を手に立ち上がり、ゆっくりと売場に移動し、壁際の椅子に腰掛ける。売場には、おばあちゃんが座るためか、いくつか椅子が設置されていた。  一緒にバッグを眺めながら、おばあちゃんは少しずつ色んな話をしてくれた。 「この店はね、元々は死んだ主人と私の二人で始めた店なのよ。私の名前、春子っていうの。だから、ハル。主人が、この名前がいいって言ってね」  そんなエピソードを聞くと、「店名で損してる」だなんて、口が裂けても言えやしない。  八年前にご主人が亡くなってからは、息子さんが正式にオーナーになったそうだ。元はバッグだけでなく洋服や靴など雑多に扱っていたのが、バッグ中心のセレクトショップに変わった。  店の商品のおよそ八割を占めるヨーロッパ製のバッグ達は、息子さん夫婦が年に数回、イタリアやフランスの展示会に出向いて買いつけてくるらしい。海外ブランドなんて百貨店に入っているような超有名どころしか知らない私だから、ブランド名を聞いても全くピンとこないのだけど、息子さん夫婦の話から察するに、ヨーロッパの最新コレクションに興味を持つような人達が注目する旬なブランドの商品を選りすぐっているらしい。  そう言われて見れば確かに、百貨店のバッグ売場では見かけないような個性的なデザインのバッグが多い。けれど個性的なだけでなく日常使いのしやすさも重視して選んでいることは、A4ファイルが収まるサイズの品揃えが良いことからも伺えた。 「息子夫婦にあとを任せてるのだけどね、つい気になって出て来てしまうの。古くからのお客様もいらっしゃるしね」    そんな昔からの常連客向けなのだろうか、扱う商品の中には、メインターゲットよりももっと上の世代に似合いそうなバッグも混じっていた。シンプルな……有り体に言えば地味なバッグ達だ。  私がそうしたバッグ達を見ていることに気づくと、春子さんは丸顔を嬉しそうにほころばせた。 「それね、革はイタリア製の良い革を使ってるのよ。作ってるのは日本のメーカーでね。職人さんが丁寧に手作りしてるから、とっても姿が良いでしょう?」  そう聞くと地味なバッグが急に品良く輝いて見えるのだから、我ながら単純だと思う。  「良い革」。「職人さんが丁寧に手作り」。  春子さんのこれらの言葉は、私の胸にすっと染み込んだ。  三十歳を過ぎても洋服選びに自信の持てない私だけれど、バッグについてはほとんどブレることがない。それを支えているのは春子さんから貰った言葉達なのだと、今更ながらに思う。 「これね、水牛の革なのよ。丈夫で、使い込むほどに艶が出るの。デザインもシンプルで素敵でしょう?」  ある日のこと。春子さんがそう言って一つのバッグを示したとき、私はきっと、極めて曖昧な表情を浮かべていただろうと思う。  それは、ワンハンドルの小ぶりなハンドバッグだった。黒一色で装飾もないそのバッグは、いかにも冠婚葬祭用という感じで、春子さんには悪いけれど、当時二十歳そこそこの私には、このバッグを持つ自分が全く想像できなかったのだ。  そんな私の内心を知ってか知らずか、春子さんは楽しそうに微笑んで話を続けた。 「少し前に、常連のお客さんが買って行かれたのだけどね、その方、とっても気に入って下さって、買い物に行くときも子どもさんの習い事の送り迎えに行くときも、このバッグを使って下さってるんですって。自転車の前かごに突っ込んでね」  え、と思わず声が出た。いくら強い革だと言っても、そんな雑な扱いをしたら傷だらけになってしまうのではなかろうか。ちらりと見えた値札には三万五千円の印字があった。ちょっと考えられない。 「傷はできるでしょうねぇ。でも、それもまた味よね。革はそこがいいわね。売り手としては、きれいなままクローゼットの中に仕舞い込まれるより、ずっとずっと嬉しいわ」  私の視線は自然と、にこにこと微笑む春子さんの顔から、再びハンドバッグへと移った。  わずかに横長の、シンプルでクラシカルなハンドバッグ。鈍い光沢のある黒のハンドバッグを改めて見つめ、それを無造作に自転車の前かごに放り込む自分を思い浮かべてみる。やっぱりあまりうまくはいかなかったけれど、それは思いのほか愉快な想像だった。  何度も「おしゃれの店ハル」に通って狙いを定め、アルバイトでお金を貯めては、ようやく一つ購入する。素材もデザインも使い勝手も、春子さんのアドバイスを聞きながらじっくり吟味した。薄紫色に「おしゃれの店ハル」のロゴが入った紙袋を抱えて帰る幸せ。そうやって、私は少しずつ宝物を集めていった。  初めて買ったのは、私が「おしゃれの店ハル」に足を踏み入れるきっかけになった、あの水玉模様のバッグだった。小さな布のバッグに三千円も出すというのは、二十歳前の小娘には勇気の要ることだった。近所のコンビニに行くときやサブバッグとして、今でも重宝している。  今回の上京に使ったボストンバッグもこの店で買った。ベージュのキャンパス地に、黒の革が部分使いしてある。軽くて取り回しがしやすくて、国内旅行にはいつもこれを持って行っている。  黒のトートバッグは就職活動用に購入した。本体はナイロンで、持ち手や前面のポケットなど、一部に薄くて軽い革が使ってある。就職後も、ナイロンの一部が擦り切れるまで使い倒した。  最後に買ったのは、大学の卒業パーティーのための、小ぶりなハンドバッグだった。淡いピンク色で、ファスナーにハートの飾りが付いたデザイン。私には甘すぎるだろうかと迷ったけれど、「よく似合ってるわよ」という春子さんの一言で自信が持てた。根が張る総革のバッグは、結局これ一つきりだった。  地元での就職が決まり、四年間過ごしたあの町を離れる前日、「おしゃれの店ハル」を訪れた。  欲しいバッグはまだまだあった。素敵なバッグ達を名残惜しく見て回りながら、地元に帰ることを春子さんに告げた。 「そう……私達は寂しくなるけれど、ご両親はきっとお喜びでしょうね」  きっとまた買いに来ます。  そう言う私に、春子さんはいつものように微笑んで頷いてくれた。 「楽しみに待ってますよ」  それが、春子さんと会った最後になった。  それから十年、私が一度も訪れない間に、「おしゃれの店ハル」は無くなっていた。  春子さんはどうしているだろうか。十年前、すでにかなりの高齢だった春子さんは……。  
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