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 予期しない獲物のような唐突さで、その言葉は羽白(はしろ)の耳に飛び込んできた。 「麒麟(きりん)」  ここ半月ばかりの間、羽白の頭を占めていたのは麒麟のことばかりだったから、ゆっくりと声する方に首をめぐらしたのも無理はない。  綾織(あやし)多治(たじ)の国境、大比呂(おおひろ)川の渡し船には、他にも数人の客が乗っていた。声は、その中でも一番年若な青年のものだった。  青年というより少年に近い、まだ充分子供っぽさを残した彼は、頼る者でもいるのだろう。都に上る途中と言っていた。そしてなんのことはない、早々と家恋病にかかってしまったようなのだ。  後にしてきた故郷のことを、彼はたてつづけに話していた。隣に座った因果で聞き役にされてしまった行商人を、羽白はさきほど、ひそかな同情をもって眺めたものだ。てんでにうんざりしている乗客には気づきもせず、青年は語りつづけた。  家族のこと、故郷の美しさ、地霊(ちれい)の豊さ。  なにしろ、自分の故郷には、まだ麒麟だっているのだから。 「麒麟?」  ここにいたって、行商人ははじめて反論した。 「麒麟がいるって言うのかね、あんたは。龍が死に絶えたことを信じない頑固者も麒麟の死滅だけは認めている。麒麟は、龍以上に霊的な生きものさね。なのに、あんたの故郷には麒麟がいるってね?」 「だって、本当なんだ」  青年はいくらか弱気になって首を振った。 「見た者がいる。金色の身体と、それよりも薄い色のたてがみと尾を持っているそうだ。犬ぐらいの大きさで──」 「あんたは見たのかね」 「見た、足跡を見たよ。馬とよく似ているがあんなに小さな馬はどこを探してもいやしない。やっぱりあれは麒麟なんだ」 「ふふううん」  行商人は馬鹿にしたように顔をそむけた。青年は傷つけられて口ごもり、それでももそもそとつぶやいた。 「麒麟なんだ。私の故郷ではみんな言ってる。ずっと昔から」 「それで」  羽白は静かに声をかけた。 「故郷はどこだったかな」  青年は驚いて羽白を見つめた。船端近く、胡座をかいて座っている若い男を。  身体つきは華奢で、ほっそりとした美しい顔立ちをしている。粗末な衣と袴、まっすぐに背中に垂らした長い黒髪。  髪を結わないのは放浪の民の証であり、大きな革袋に入れて大切そうに前に抱えているのは一面の琵琶だ。漂泊の琵琶弾きであることは一目で知れた。 「長足(なたり)」  青年は、救われたように声を上げた。 「綾織の名足だ。小夜叉岳(こやしゃだけ)の近くだよ」  渡し船が多治に着いても、羽白は降りなかった。  舟に乗ったまま、再び綾織に引き返した。 「あんたもまったく、物好きだあね、琵琶弾きの兄さん」  渡し船の親父があきれたように声をかけた。 「ほんとうに麒麟がいると思っているのかね」 「さあ」  羽白は琵琶を抱え直し、小さく笑みを浮かべた。 「どうだろう」  麒麟というのはめでたい獣だ。  それは誰でも知っている。  鹿によく似ているが尾とたてがみは馬にも似、そして額に突き出た一本の角。  幼獣には角がなく、まだ雄雌の区別を持っている。麒麟と言われるのは、彼らがつれあいを見つけたその時からだ。二頭の幼いものたちは、一頭の成獣に化している。  雄雌同体、かがやく角、すばらしい肢体の霊獣に。  琵琶には麒麟の古謡が三つある。羽白はそれをみな弾きこなすことが出来る。耳を傾ける者も、まずは感心して聞きほれる。  だが、どうも違うのだ。  麒麟の曲を弾いても、羽白は麒麟を思い浮かべることが出来なかった。  麒麟は伝説の向こうに、ぼうぼうとおぼろに霞んでいるだけだった。  どうしてなのだろう。  考え、やがて思い当たった。  これらの曲をつくった琵琶弾きたちも、麒麟を見たことがないにちがいない。  そうだ、だいたい琵琶弾きなどという商売が生まれるずっと以前に麒麟は死に絶えたはずなのだから。  だとすれば、古謡に執着することもないわけだ。  伝説でしか麒麟を知らないという条件は同じなのである。  自分で曲をつくってみようと羽白は思った。そのためには、どんなささいなことでもいい、麒麟についての情報を拾い集める必要があった。  舟の青年の言葉を、羽白はまるきり信じているわけではない。しかし、麒麟の噂がある以上、麒麟に関係することが片鱗なりとも残っているのではあるまいか。  行ってみるのも悪くない。  というわけで、数日前にたどった綾織の街道を、羽白はてくてくと引き返していた。  高い山脈が紫色にけぶる雲さながら、前方に横たわっている。  山脈の中ほどに形のよい円錐形の稜線を見せているのが小夜叉岳で、目指す名足はその麓だった。  夕刻近く、羽白はびたりと足を止めた。  道の端の木の根元、小さな影があったので。
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