2.3月30日 三村奈津美の憂鬱

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「きゃあああ」  女の悲鳴に驚き急ブレーキをかける。バランスを失った私は道路側に自転車ごと倒れ込んだ。堤防側に倒れていたら川べりまで落ちてしまうところだった。危ない、危ない。立ち上がり自転車を起こしていると私の後ろを歩いていたらしい男性がこちらに近付いてきた。落ちたスマホを拾ってくれたようだ。 「大丈夫ですか?」  暗くてよく見えないが黒縁眼鏡の冴えないサラリーマンといった感じの男だ。よくうちの店にいるタイプ。聞いていた不審者はジャージの上下で現れるらしいので不審者というわけではないだろう。 「あ、はい」  私にスマホを渡すとその男性はキョロキョロと回りを見渡した。 「今、誰かとぶつかりませんでしたか?」  身に覚えのない私は首を横に振る。確かに悲鳴は聞こえたがぶつかってはいない。 「あ、あそこに人が」  男性は堤防の下を指差し駆け下りようとして足を止めた。そして妙に冷静な口調で呟く。 「あの人……亡くなってませんか」  まさか、と思いつつ私も下を見る。 「ひぃっ」  堤防下に人が倒れていた。暗くてよく見えないがおそらく八十代ぐらいだと思われる老婆。その体はピクリとも動かない。そして……首が有り得ない角度にねじ曲がっていた。 (さっきの悲鳴……ひょっとして私の自転車を避けようとして転落したってこと?) 「とりあえず救急車と警察に連絡します」  スーツのポケットからスマホを取り出し電話をかけようとする男性の手を私は慌てて掴む。 「ちょっと待ってよ」 「どうしてですか、早く連絡しないと」 「もうあれって……死んでるでしょ。だったら救急車なんて呼んだって意味ないじゃん」 「それでも連絡しないと……あっ!」  咄嗟にスマホを取り上げる。男性はチラリと私の顔を見るとすぐに視線を外した。なぜかさっきからこちらの顔を見ようともしない。私は舌打ちしそうになるのを我慢してこう言った。 「ねぇ、見なかったことにしてよ」  私の言葉に驚いたように男性は沈黙する。 「いいじゃない別に、勝手に足を滑らせて落ちただけなんだから。あなただって面倒事は嫌でしょ?」  すると男性は俯いたままでぽつりと言う。 「いいんですか?」 「はぁ?」  苛ついた私は男を睨みつけたが相手は相変わらずこちらを見ない。
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