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話は遡る。老婆が亡くなった事故の翌朝のこと。駅前の喫茶店を覗いてみると、あんなことがあったにも関わらず彼女はケロリとした顔で接客をしていた。俺は前夜彼女を見たとき、暗闇の中でもすぐにこの喫茶店の娘だと気付いていた。あの堤防沿いの道は会社への往復に毎日通るのだがたまに彼女を見かけることがあったから。
(よく平気な顔でいられるもんだ)
俺は結局彼女の存在を警察に告げることはしなかった。ただ悲鳴が聞こえて堤防下を覗いたらお婆さんが倒れていたとだけ証言したのだ。このままであればおそらく事故として処理されるだろう。別に彼女を庇うつもりはなかった。警察に罰せられなかったとしても、きっと。
(嗚呼、やっぱり)
彼女をじっと見つめてしまった俺は後悔してすぐに視線を逸らす。彼女の後ろには昨夜亡くなった老婆が虚ろな目で立っていた。
(だから言ったのに。恨まれちゃいますよって)
誰にも言ったことはないが俺には幽霊や生霊というやつが見える。恨んでいる人の顔が見えたり、どんよりと暗いオーラがその人を覆っていたりするのだ。だから俺はあまり人の顔をじっと見ない。恨みの念など見て気持ちのいいものではないから。
(あれだけハッキリ見えるってことは相当恨んでるんだろうな)
見ることはできても恨みを祓う力はない俺は暗い気持ちで出勤した。
「おはよう、渡辺君!」
そんな俺に羽島先輩はいつものように明るく話しかけてくる。桜の花が綿菓子みたいだと彼女は笑った。
(綿菓子、かぁ。この人には桜の花がそんな風に見えるんだ。彼女の目に映る桜は昨日の夜俺が見た桜とは全くの別物なのだろう。昨夜の桜、あれは心の闇を覆い隠す白い靄のようだった)
あれは花霞って言うんですよ、と俺が言うと先輩はたいそう感心してみせた。適当に相槌を打っていると今度は駅前の喫茶店の話題になる。あまり嬉しくない話題だ。少し顔に出てしまったかもしれない。出張の準備があるから、と雑談を打ち切ると少ししょんぼりした様子で先輩は自分の席へと戻っていった。
つと視線を上げると先輩と目が合う。首を傾げる先輩を温かなふわふわとした光が覆っていた。それがまるで彼女の言う綿菓子のようで思わず笑ってしまう。きょとんとした表情でこちらを見ている先輩に、お土産買ってきますねと言うと嬉しそうに微笑んでくれた。ああ、この人とならちゃんと目を見て話せるかもしれない、俺はそんなことを考えながら出張の準備に取りかかった。
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