大人になった私たち

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部屋に着くと、彼の好きなホワイトムスクの香りがする。 初めは苦手だったこの香りにも、もう慣れてしまった。 「今日は蒸し暑かったね」 ワイシャツを脱ぎながら、天気の話をするなんてどこの他人だろう。 「先にシャワー浴びていい?」 「どうぞ」 止める理由もなく、彼は鼻歌を歌いながらシャワールームへ向かう。 キレイに磨かれた姿見に映る私の形はやっぱり彼と同じ。 いつか見た、柔らかく跳ねるむず痒いその形は、現実で久しく見ていない。 手持無沙汰でつけたテレビも、ドラマの中で男女が波の形のことで言い争っている。 人で溢れたこの世の中で、同じ形の人を探したいとかなんとか。 運命の人を探すためのツールにも使われているらしい。 そういう意味なら、彼と私は同じ形をした運命の人だ。 部屋にふわりと石鹸の香りが広がる。 彼が出てきたのだろう。 立ち上がり、上半身が露わになった彼にそっと近づいた。 「どうしたの?」 「ねえ、あなたは私のこと好き?」 「もちろんさ、レンちゃんのこと大好きだよ」 じっと見つめた水の滴るそのパーツは、相変わらずなんの変化もない。 心臓の上に刻まれた、ギザギザの同じ傷に優しく触れる。 「ん?」 ぎこちない音がして、シャワーが終わると水を持ってくるように設定された、小型のロボットがやってくる。 どの家庭でもよく見るようになった便利ロボットだ。 その顔の部分には液晶がはめ込まれ、満面の笑みが浮かんでいる。それは自由にのびのびと感情をあらわにしていた。 「ありがとう」 言って意味のあるのかわからない言葉を放ち、彼はコップに注がれた水を受け取った。 丁度私たちが映る位置にある姿見。 私たちの表情は固まったまま動かない。 感情を一定に、穏便に、ある程度自由に操ることができるようになった大人の姿。 じっと鏡を見つめる私に気が付いたのだろう。 「なんだか、ロボットの方が人間みたいだね」 空気が、ガラスの音を立てて砕けた。 触れたギザギザは温かいのに、どうしてこんなにも私たちは冷たい。 満面に笑うロボットと、無表情だけど人間の私たち。 人間の証であるはずの波の形に再び触れる。 ぎこちなく笑ったつもりを見せる彼が 「で、レンちゃんは?」 と聞いてきた。 「え?」 「ほら、さっきの続き。俺はレンちゃんのこと好きだよ。レンちゃんは?」 「……」 嘘の証にはならないけれど、目の前の波の形は変わらない。 私には、言えない。そんな丸見えの嘘をついて、その言葉を言えない。 涙が溢れそうになったけれど、瞳は砂漠のように乾いたまま。 でも私、あなたのことが好きなのよ。名前が同じだってだけで、選ぶくらいに大好きだった。 あれが恋じゃなかったなら、私は誰とも恋なんてしていない。 「いいよ、無理しなくても」 相変わらずぎこちない、笑顔とは言えない表情を浮かべて、私の頭にそっと手を伸ばす。 「違っ……!」 違うの。 でも、今はちゃんとあなたが好きなの。 大人になって、もっと上手に感情を隠せるようになった私の気持ちは、彼に一生伝わらない。 感情は溢れてるはずなのに、涙のひとつもでない。 返ってくる筈のグラスを待つロボットからみたら、私たちの方が冷たい生き物だ。 ねぇ、シンちゃん。 知っていたら教えてほしい。 人で溢れたこの場所で、いったいどれだけのヒトたちが心臓の柔らかく跳ねる恋ができるのだろう。
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