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電車には踊り子がいる。
街を走る一本の路面電車。それは飾り気のない赤茶色をしていて、四つあるガラス窓から見える内装も赤いソファに木面の床と壁くらいなもの。側面に書かれている番号が行き先を示している。
駅までなら二番、市内までなら三番、市外までなら四番。車もバスもある現代では乗る人などほとんどいない。乗り場はいつもがらがらだった。しかし、ある一定の人たちはその電車の隠された番号を探して定期的に乗り場を訪れていた。
そう、一番電車だ。
普通のダイアにはない「1」の番号が書かれた電車は五年前突然現れた。それに乗った人はたったの三人。番号を見ずに乗ってしまったその三人は存在しないはずの一番電車に意図せずして乗ってしまったのだ。その人たちはみな、口を揃えてこう言った。
あの電車には踊り子がいる。と。
聞いた話をまとめると、まず電車はカーテンが閉じられていて外からは中が見えなくなっている。そして、中に入ると橙色の蛍光灯が車内を照らし、向かい合っている座席と座席の間に一本の赤いカーペットで出来た道があり、そこを踊り子が歩き、音楽に合わせて踊りを見せるのだという。乗客はそれをただ見ているだけなのだが、その際破ってはならないルールがある。
決して踊りの邪魔はしないこと。
立ち上がらないこと。
一言も喋らないこと。
踊り子の誘いは断らないこと。
どうしてそのようなルールがあるのかは分からない。一番電車に乗った人はそんなことを考える間もなく終点で降ろされたらしい。
たった一瞬の、夢のような空間。それが一番電車に対する情報の全てだった。
このことはたちまち広まり、多くの人が一番電車を求めた。しかし、それ以来乗った人も見た人も現れず、いつしか世間から忘れられてしまった。噂として、一つの伝承として処理されてしまったのだ。
私は記者として、その存在を確かめなくてはならないという一種の使命感を抱き、何年も何年も一番電車を追い続けている。何よりも私は知りたいのだ。一番電車に乗ったという彼らの恍惚とした表情、あれの真意を。
秋の名月が街を照らす中、今日最後の電車が私の前を通り過ぎた。今日も見ることは叶わなかったようだ、とスケジュール帳にバツを付ける。毎日同じことの繰り返しだ。いつまで掛かるか分からない。しかし、絶対にあるのだという確信だけはあった。
乗り場を降りて、数台通る車を見送ってから道を渡る。人通りはほとんどなかった。いつもは大通りから帰るのだが、今日は近道をしようと銀行とデパートの間にある路地を通ることにした。人一人がやっと通れるような細い路地、他に通る人などいやしない。
月明かりが届かない真っ暗な路地を歩いて歩いて、一向に出会えない一番電車に思いを馳せた。何か条件があるのか、もしくは一度限りのプレショーだったのか。いや、だとしたらもっと大々的に宣伝をするはずだ。ならばなぜ、一番電車は現れないのか。
うーん、と頭を悩ましながら歩いていると何かに躓いて大きくよろけ、そのまま前に転んでしまった。
「いたっ……何に躓いたんだ?」
起き上がって足元を見ると、なぜか路面電車の線路が引かれていた。あれ、と思い辺りを見回すと、そこはもう路地ではなく大通りのど真ん中だった。いつの間にか路地を抜けていたのだろうか、と一瞬思ったが、路地を抜けても大通りへは出ないはずだし、何よりも人が誰もいないなんておかしい。
来た道を戻ろうとして、ふと思いとどまる。
これはもしかして……。
そう思い線路の先を目で追った。すると、少し先に路面電車の乗り場を見つけた。
駆け足で乗り場へ向かい、時刻表を覗き込む。今は二十二時五分前……。上から時刻表を指でなぞる。
あった、二十二時ちょうどの電車!
遠くからガタンガタン、と聞きなれた電車の音が響いてくる。やっと、やっと私は乗れるのだ。右から黄色い光が差し込んできた。眩しさに一瞬目を細めると、次の瞬間にはもう目の前に電車が止まっていた。いつも見ている電車と同じ形、同じ色。だが、確かにカーテンが閉まっていて数字が「1」になっている。
しゅー、と空気が抜けるような音とともに扉が開く。歓喜に打ち震える足を拳で叩き、歩みを進めた。
中は話に聞いた通りだった。赤いクッション材の座席を挟んで、真ん中に赤いカーペット。奥には張り紙が貼ってある。ああ、何もかもが話の通りだ。しかし、乗っているのは私だけではなかった。顔中に皺を携え、丸いハットを目深に被った老紳士が既に席に座っている。是非話を聞こう、と口を開けると手で制された。そして奥の張り紙を指さす。そうだ、ルールがあるのだった。仕方なく会釈だけをして腰を下ろす。すると、電車が動き出し曲が流れ始めた。
おや、思っていたような音楽じゃない。踊り子というから、てっきり大人しいジャズやクラシックを想像していた。が、実際に流れたのは「夢見るシャンソン人形」。不思議な選曲だな、と考えてると突然運転席の扉が開く。
そこから出てきたのは西洋風の、凛とした顔をしている青い目の少女だった。白いワンピースを揺らしながら軽やかな動きで目の前に躍り出てくる。その姿はまるで天使かと錯覚するかのごとき美しさ。持っていたカメラの電源を入れることさえ忘れてただその踊りに見惚れた。
腕をぴん、と伸ばしたり足を交差したりと多彩だが動きはどこかぎこちない。それでも彼女の一挙一動全てから目が離せなかった。
歌が「恋は歌の中にだけあるわけじゃないのに」というところに差し掛かった時、踊り子が老紳士の手を取った。彼は驚いた顔を浮かべながらも踊り子とともに踊り始めた。不格好でリズムもままならないダンス。それは初恋の少女に話しかけることができない少年を彷彿とさせた。
二分ちょっとしかない短い曲。終わるのはあっという間だ。しかし、二人のダンスを長い間見ていたかのような感覚だ。曲が止まると電車も止まる。そして、扉が開いた。
ここで終わりなのだろうか。老紳士を見ると、踊り子に手を引かれ運転席のほうへと歩いて行っていた。私の視線に気付くと、彼は帽子を少し上げ小さくお辞儀をした。
〝踊り子の誘いは断らないこと〟
私も軽くお辞儀を返して電車を降りた。
するとそこは、いつも使っている電車の乗り場だった。
次の日、昼間に昨日と同じ道を辿ってみた。路地は思っていたよりも短く、抜けた先も大通りではなくて建物が並ぶ小さな商店街だった。昨日のあれは、きっと一夜限りの夢だったのだろう。
そう思った時、目の前にあった古い店のショーウィンドウにあの少女の姿を見た。
あまりの驚きで一瞬息が止まるかと思った。いや、実際に止まった。慌てて深呼吸をし、一旦心を落ち着ける。
確かに、あの少女だ。遠目で見ればただの糸人形だが、近付いて見れば見るほどあの少女そのままだ。肌も目も髪も服も全てが昨日見たそのまま、美しかった。展示されているようにも見えるが、まさか売り物なのだろうか、と中に入ると、棚には数々の人形、正面には木で出来たステージのようなもの、入り口のすぐ横に蓄音機が置かれている他、古めかしいポスターが壁中に貼られていた。
「すみません、誰かいらっしゃいますか?」
声を掛けると、奥から老齢の女の人が出て来た。この人があの人形の持ち主だろうか。
「あら、ごめんなさい。もうお店は畳んだんですよ」
「それは、すみません。実は僕は新聞記者をやっているんですが、ちょっと店先の人形が気になって。ここは人形を売っていたんですか」
そう聞くと、あら、あの人形? と言って持ってきてくれた。ガラス越しでは気が付かなかったが、人形の目は宝石で出来ているように見えた。
「主人が人形劇をやっていたんです。中でもこの子はお気に入りだったみたいで。二十年掛けて作ったんですよ。完成したのは五年前とかじゃなかったかしら」
「へえ、それはそれは。ご主人は今いらっしゃらないんですか」
途端に、夫人は顔を暗くする。その顔で全てを察した。
「主人は、昨日、この世を去りました」
「そうでしたか……」
「あの人、最後にもう一度だけこの人形の踊りが見たいって言い出して、もうほとんど立てない状態だったのに古いスーツを着て手が震えてるのに糸を掴んで……、ふふ、変な人でしょう?」
「いえ……、素敵な方ですね」
私の中で全てが繋がった。五年前の一番電車と、今回の一番電車、そしてあの老紳士。今目の前にある人形が全てを繋いでいる。あのぎこちないダンスは老紳士と踊り子の最後の舞台だったのだ。
しかしなぜ、電車だったのだろう。
「すみませんが、一つお聞きしても?」
「答えられることなら、もちろんいいですよ」
「一番の番号を持つ路面電車をご存知ですか」
夫人は記憶を掘り起こそうと首を捻った。しばらくして顔を上げると「ああっ」と声を出した。
「知ってますよ。元々一番の電車一つだけが使われてたんですもの。でも、古くなって使われなくなったんですって」
「もしかして、ご主人もよく使われていたりしませんでしたか」
「ええ、よく使っていましたよ。劇場へ行くには路面電車を使うのが一番でしたから」
なるほど、そういうことだったのか。あの踊り子電車は、まさに、人形が見せていた夢だったのだろう。もしくは、美しい走馬灯か。
「ありがとうございました。良いお話が聞けました」
ふと、持ち主のいなくなった人形のことが気になった。
「この人形はどうするんですか?」
「実は、主人と一緒に燃やしてもらおうかと……あの人がとても大切にしていたものだし、何よりも一人で置いとくのがなんだか忍びなくて」
それを聞いてふふ、と笑った。決してバカにしたわけではなく、安心したのだ。人形が取り残される心配はなさそうだ、と。
「それがいいと思いますよ」
もう一度お礼を言ってその場を後にする。
店を出る時、蓄音機に乗せられた「夢見るシャンソン人形」のレコードが少し回ったような気がした。
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