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 甲賀は、バスローブ姿でベッドに腰掛けながら、由紀子が愛用していた煙草を咥える。目の前に立ち籠める煙の香りは、由紀子と過ごした夜の数々をフラッシュバックさせる。  手で煙を払い、何気なく窓の外を眺めてみた。夜の果てまで連なるビル群が、眩しい光を放って煌めいていた。  今までずっと、この瞬間を欲していたのかもしれない。甲賀はそう思いながら、一種の解放感を味わっていた。  甲賀は幼い頃から、常に完璧な”役”でいることを望まれてきた。そして実際、我を忘れるほど徹底的に役に没頭できる、天才的な才能も持ち合わせていた。だがそれゆえに、甲賀は久しく、役でない自分――本当の甲賀雅也を忘れていた。甲賀は無意識のうちに、ただ”役”という仮面を被るだけの、のっぺらぼうとなっていたのだ。  甲賀は静かにベッドに横たわり、冷たくなった由紀子の身体に触れる。それから彼女に自分の身体を密着させ、優しく抱きしめてみる。しばらくそうしていると、だんだんと肌を通じて冷感が伝播してくるのを感じた。同時に、自分まで死体になってしまいそうな感覚に襲われた。 「君が、思い出させてくれた」  甲賀は虚ろになった由紀子の瞳を見つめながら、感極まったような声で呟く。甲賀はその瞳に、死んだ吉原真奈の目を重ね合わせていた。  吉原真奈の死体を、こんな風に抱いてみたい。”役”ではない、本物の、本当に冷たくなった彼女の死体を愛したい。甲賀は、そう強く思った。  地面にぐったりと横たわる、愛する人。クラスメートや教師に気味悪がられ、奇異の目を向けられる。冷たくなった肌に、べっとりと血がこびりつく。その瞳は果てしなく暗く、深く、そして何もない。魂が抜けて空っぽになった彼女は、もう誰にも救えないのだ。なんと不幸な少女なのだろう。なんと可哀そうで、愛おしくて、美しいのだろう。  愛する人の死は、底知れぬ愉楽を孕んでいる。新谷美咲の”役”は、それを思い出させてくれた。彼女の”役”は、皮肉にも甲賀の”役”という仮面を貫いて、その本性を解き放ったのだった。 「もう一回、監督に頼んでみるか」  甲賀はふと、そう口にした。そして想像した。カメラの前で、この手で、吉原真奈の首を絞めるのを。愛する人が、目の前で美しい死体に変わるのを。彼女が自分に向けた尊敬も、憧れも、微笑みも、自分の胸の中で全て壊れるのだ。それを成し遂げた時の快感は、どれほどだろうか。  甲賀は由紀子を手離すと、おもむろにベッドから這い出た。そして、高まる衝動に鼓動を乱す心臓をかばうように、背中を丸めて窓の方に近づいた。夜景に照らされる闇を背景に、窓に映る自分の顔。その顔には、自分のものとは思えない、醜く歪んだ笑顔が滲み出ていた。 「お前が、甲賀雅也か」  甲賀はそう言って、狂ったような笑い声を響かせた。
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