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甲賀は小便器の前に立ちながら、じっと目を瞑っていた。今日の撮影はこれで終わりだ。自分はもう高木直人ではない。甲賀は心の中で何度もそう唱えていた。
「お疲れかな、天才役者さん」
隣から、聞きなれた声が話しかけてくる。
「そんな誉め言葉は、聞き飽きた」
「つれないな。監督がそう言ったんだよ」
瀧見はこちらを向いて、にんまりと笑みを浮かべる。甲賀はそれを無視してズボンのチャックを閉めると、手洗い場に向かった。
「今夜も、笹原由紀子か?」
甲賀が手を濡らすと同時に、瀧見の声がトイレに響いた。
「彼女はいい娘だよ。気に入ってる」
「ったく、いい気なもんだな。彼女、例のモデル事務所の中でもトップクラスの逸材だぜ。権力者はやりたい放題だよなあ、ほんと」
瀧見は皮肉っぽくそう言うと、鼻歌交じりに甲賀の隣で手を洗いはじめた。
甲賀はハンカチで手を拭いながら、鏡に映る自分の顔を見つめてみた。トイレの照明が、表情に暗い影を作っている。まだ少し、自分じゃない誰かの面影が残っているようにも見えた。
「どうした、妙な顔して」と、瀧見が鏡越しにこちらを見て言う。
「まだ、役が抜けてないのかもしれない」
甲賀はそう言ってハンカチを胸ポケットに入れると、拭いたばかりの両手を水にさらして、そのまま顔を洗いはじめた。瀧見はため息交じりの声で「才能が溢れすぎてるのも、困りもんだな」と呟いた。そして「じゃあ、お疲れさん」と言い残し、先にトイレを出てしまった。
甲賀は一人、びしょびしょになった顔をハンカチで拭う。それから再び、鏡に映る自分の姿を観察する。高木直人は、とっくに消えている。だが、胸の奥の深いところに、まだ何かが取り残されているような気がする。
ふと、吉原真奈もとい新谷美咲の姿が脳裏をかすめた。鏡の中の甲賀雅也は、こちらをじっと見つめていた。
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