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「何かあったの?」  ぼんやりと天井を眺める甲賀の背中に、笹原由紀子は訊いた。甲賀はふと振り返り、ベッドに横たわる由紀子と視線を合わせる。何もかもを自分に頼り切っているような可憐な光と、全てを見透かしているような妖しい光が、彼女の瞳の中で混ざり合っていた。 「大したことじゃない」  甲賀は少し迷ってから、そう返した。 「天才は繊細だって聞くわ。大したことじゃなくても、気になっちゃうんでしょ」  栗色の長い髪をかきあげながら、由紀子は言う。シーツの擦れる音が、甲賀の耳を刺激する。甲賀は静かにベッドに腰を下ろして、ゆっくりと口を開いた。 「自分が自分じゃなくなる瞬間って、あるか?」 「それは、仕事の話をしてるの?」  甲賀が頷く。由紀子はベッドランプの傍に置いた煙草の箱を手に取って「あるわ」と答えた。 「綺麗な服に着替えて、メイクをして、髪型整えて、それでカメラを向けられたとき、私は商品としての『笹原由紀子』になる。それで、キリっとした表情で、背筋をぴんと伸ばして、勿体ぶった歩き方で……誰よりも美しく綺麗で格好良くあろうとする」  薄暗い部屋に、ライターの小さな火が灯る。由紀子は煙草を口に咥えて目を瞑り「でもそれは、ある意味、本当の私じゃない」と付け加えた。  甲賀はふと窓の外の夜景に目をやる。視界はやがて、煙草の煙で薄く覆われる。甘いような辛いような複雑な匂いが、肺に入り込んでくる。 「自分が『笹原由紀子』に乗っ取られそうになったことは?」  試しにそう訊いてみた。由紀子は何かを探るような目で、甲賀の顔をまじまじと見つめる。そして数秒の沈黙の後、彼女は静かに笑った。 「まさか。あくまで、私は私よ」  甲賀は部屋を占める暗闇を見つめながら、小さく頷いた。たしかに、自分は自分だ。いくら役者と言えども、”役”に支配されるなど、ありえない。  しかし、と甲賀は自分に問いかける。なら、今胸の奥で蠢いている異物は、一体何者だというのか。奇妙な違和感。自分が知っている自分に戻れないもどかしさが、頭の隅にこびりついて離れない。  甲賀は今まで経験したことのない、正体不明の不気味さに襲われた。同時に、その正体を知ることが無性に怖くなった。だから甲賀は、そっと由紀子の温かい身体に触れて、そのままベッドに倒れこんだ。そうして、自分の中に潜む何かから、目を逸らすことにした。
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