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 知らせを聞くや否や、高木直人(なおと)はすぐに職員室から飛び出すと、裏庭へと続く廊下を走った。脳裏にふと、吉原真奈(まな)の笑顔が浮かぶ。それから、それがトリガーになったのか、彼女との思い出が走馬灯のように次々とフラッシュバックする。直人は、自分の頼りない足音が無性に腹立たしくなった。  外に出て辺りを見回すと、校舎の影に人だかりが出来ていた。直人の背筋に、不気味な悪寒が走った。息が乱れている理由は、全力で走ってきたからというだけではないだろう。直人は、まるで悪い夢を見ているかのような気持ちで、絶望に震える足に鞭を打ち、その人だかりへと向かって走った。 「あれ、真奈ちゃんじゃない?」 「うそ、信じられない」 「なんだあれ、まじかよ」 「やだやだ、こわいこわい」 「お前ら、下がってろ!生徒は来るな!」   阿鼻叫喚のざわめき声が、直人の焦りを掻き立てる。 「あ、高木先生。彼女、あなたのクラスの……」  パニック状態の生徒たちを制止していた隣のクラスの担任が、直人に話しかける。だが直人には、それに答える余裕はなかった。無我夢中で人混みを掻き分けて進んだ先には、頭から血を流す吉原真奈が、ぐったりとした様子で倒れていた。 「ま、真奈……」  直人は思わず震える声を漏らす。自分への怒りと、後悔と、絶望とが混ざり合い、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。 「屋上から飛び降りです。朝早くに学校に忍び込んだんでしょう。僕たちが気付いた時にはもう……」  生徒たちの悲鳴に交じり、誰かの低い声がそう教えてくれた。  吉原真奈は、直人の恋人だった。誰にも知られない、教師と生徒の秘密の恋だった。もちろん、二人ともお互いを真剣に愛していたし、冗談交じりに、卒業したら結婚しようなんて言ったこともあった。今思えば、自分たちの幼さに目を背け、浮かれていただけなのかもしれない。  ある日、事件は起こった。直人が携帯に保存していた真奈との写真を、彼女の同級生が偶然目撃してしまったのだ。  直人と真奈の噂は、すぐに学校中に広まった。それはあくまで単なる噂の範疇に留まったものの、二人を見る生徒たちの目は、少しずつ陰湿で悪意を含んだものとなっていった。中には、その悪意を行動に移した者も居たようだ。  彼女はきっと、ひどく辛い思いをしたに違いなかった。それなのに直人は、目の前の彼女の笑顔に甘えて、その事実を拒んでしまった。そして、見て見ぬふりをして自分をごまかしていた。自分が傷付くのが、怖かったのだ。  直人は真奈を抱きかかえながら、自分の愚かさを憎んだ。何度も触れてきた真奈の肌は、もう冷たくなっていた。自分が触れているのは、もうあの時の真奈じゃない。いや、今よりもずっと前から、真奈はかつての真奈じゃなかったのかもしれない。ただ、今まで自分が気付かないふりをしていただけだ。  もはや直人には、泣き叫ぶ気力も残っていなかった。虚ろになった真奈の目が、直人の目の奥をじっと見つめる。直人は、冷たくなった真奈の身体を抱きながら、静かに絶望に沈んでいくことしか出来なかった。
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