6016人が本棚に入れています
本棚に追加
第8話 仕事
「だめだ」
「どうして!?」
まさか、聞き入れてもらえないとは思わず、戸惑いを隠せなかった。
「家事なら、きちんとやります」
「いや、家事は別にやらなくてもいい。必要ない」
目の前には家政婦さんが作ってくれた夕食が並んでいた。
家事はお昼近くに通いの家政婦さんがきて、昼食も夕食も作ってくれた。
やることがなくて、掃除をしようとすると、座っているよう言われ、おとなしくさせるためか、お茶を出されてしまった。
絹山の家でも家政婦さんを雇っていたけれど、私は外でずっと仕事をしていたからか、なにかしてないと落ち着かない。
「掃除ならハウスクリーニングがあるし、食事は家政婦に来てもらう。洗濯は下着以外、クリーニングに出せば事足りる。家事をして欲しくて結婚したわけじゃない」
「それなら、なんのために結婚を?」
朗久さんの顔をまじまじと見たけれど、黒ぶち眼鏡と前髪に隠れて感情は一切、読めない。
「ヒマなら、マンション内にある習い事教室かジムかプールにでも行けばいい。近くにショッピングモールもある」
そこまで言って、思い出したようにポケットから財布をとりだし、カードを差し出した。
「使え」
「頂けません」
「なぜ?」
「頂く理由がありません」
「妻なんだろう?いちいち理由がないとなにもかも、だめなのか?面倒だな」
その面倒な結婚を望んだのは自分なのに―――
「どうせ絹山の百貨店に行ったところで、新しい社長が仕切っているから、お前は邪魔者扱いだぞ」
邪魔者と言われて、ハッとした。
「そう………そうですよね」
新体制となり、私が行ったところで、何しに来たんだと思われてしまうだけ。
自分がいないと、と考えていたことを恥ずかしく感じた。
「いや、違う。その、なんだ。うまく言えないが、今まで莉世がやってきた仕事を否定しているわけじゃない」
慰めようとしてくれているのだろうか。
「そうですね。もう父が社長をしていた時とは違いますし、私、図々しかったですよね」
はっきり言ってもらえて、逆によかった。
一緒に働いていた人達から、嫌な顔をされるところだった。
よく考えれば、わかったことだ。
送別会までしてもらったのに今更―――もう戻れない。
失ったとはっきり自覚していたのに未練がましいにもほどがある。
「何か……違う仕事を探してもいいですか?」
朗久さんは驚いていた。
「ここにいるのはそんなに嫌か?不自由なく、過ごせるようにはしたと思っていたが」
不自由はなく、むしろ、居心地はいいと思う。
今日、一日過ごしただけでも贅沢な暮らしだと感じるくらいには。
「嫌ではないけれど、ずっと仕事をしてきたので落ち着かないんです」
正直な気持ちを話すと朗久さんはなるほど、と頷いて言った。
「そんなに働きたいなら、俺の会社で働くか?」
「朗久さんの?」
「そうだな。秘書になればいい」
ずっとマンションにいて、いらないことばかり考えるよりはいいような気がして、朗久さんの提案を二つ返事で受け入れたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
二日目の夜はそれぞれの部屋で眠った。
また夜に出かけて行ったみたいだったけれど、朝には帰ってきていた。
疲れているのに会いに行くなんて、よっぽど大切な人なんだと思っていた。
「それはいいけど、もう起きてもらわないと遅刻よ」
朗久さんが出社の時間になっても起きてこないので、部屋のドアを開けると、まだ眠っていた。
「朗久さん!」
「う……」
朝に弱いのか、もぞもぞと布団の中に潜ってしまった。
「起きてください」
ゆさゆさと揺さぶると、大きな手が出てきて私の体を捕まえた。
「えっ!?」
何が起きたか、一瞬わからず、気づくと朗久さんの腕の中にいた。
「わかった、わかった。一緒に寝よう」
「ま、待ってください、仕事は」
抵抗しようとすると、抱きすくめられ、頭を撫でられた。
まるで、小動物を愛でるかのように髪と額に口づけをされる。
「や、やめてください!朝なんですからっ!」
自分でも混乱して何を言っているかわからない。
「ん…?あー……。悪い」
枕元にあった眼鏡に手を伸ばし、眼鏡をかけると誰なのかわかったらしく、解放してくれた。
手を離してくれた瞬間、慌ててベッドから出た。
転びそうになりながら、部屋のドアの所まで行くと、朗久さんが苦笑した。
「そこまで警戒しなくてもいいだろう」
誰と間違えていたのか、知らないけれど、その手があまりに優しくて勘違いしそうになる。
「遅刻しますよ」
「ああ。今、用意する」
部屋をでて、くしゃくしゃになった髪を整えた。
鏡の向こうの私の顔は赤く染まっていた。
最初のコメントを投稿しよう!