第8話 仕事

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第8話 仕事

「だめだ」 「どうして!?」 まさか、聞き入れてもらえないとは思わず、戸惑いを隠せなかった。 「家事なら、きちんとやります」 「いや、家事は別にやらなくてもいい。必要ない」 目の前には家政婦さんが作ってくれた夕食が並んでいた。 家事はお昼近くに通いの家政婦さんがきて、昼食も夕食も作ってくれた。 やることがなくて、掃除をしようとすると、座っているよう言われ、おとなしくさせるためか、お茶を出されてしまった。 絹山(きぬやま)の家でも家政婦さんを雇っていたけれど、私は外でずっと仕事をしていたからか、なにかしてないと落ち着かない。 「掃除ならハウスクリーニングがあるし、食事は家政婦に来てもらう。洗濯は下着以外、クリーニングに出せば事足りる。家事をして欲しくて結婚したわけじゃない」 「それなら、なんのために結婚を?」 朗久(あきひさ)さんの顔をまじまじと見たけれど、黒ぶち眼鏡と前髪に隠れて感情は一切、読めない。 「ヒマなら、マンション内にある習い事教室かジムかプールにでも行けばいい。近くにショッピングモールもある」 そこまで言って、思い出したようにポケットから財布をとりだし、カードを差し出した。 「使え」 「頂けません」 「なぜ?」 「頂く理由がありません」 「妻なんだろう?いちいち理由がないとなにもかも、だめなのか?面倒だな」 その面倒な結婚を望んだのは自分なのに――― 「どうせ絹山の百貨店に行ったところで、新しい社長が仕切っているから、お前は邪魔者扱いだぞ」 邪魔者と言われて、ハッとした。 「そう………そうですよね」 新体制となり、私が行ったところで、何しに来たんだと思われてしまうだけ。 自分がいないと、と考えていたことを恥ずかしく感じた。 「いや、違う。その、なんだ。うまく言えないが、今まで莉世(りせ)がやってきた仕事を否定しているわけじゃない」 慰めようとしてくれているのだろうか。 「そうですね。もう父が社長をしていた時とは違いますし、私、図々しかったですよね」 はっきり言ってもらえて、逆によかった。 一緒に働いていた人達から、嫌な顔をされるところだった。 よく考えれば、わかったことだ。 送別会までしてもらったのに今更―――もう戻れない。 失ったとはっきり自覚していたのに未練がましいにもほどがある。 「何か……違う仕事を探してもいいですか?」 朗久さんは驚いていた。 「ここにいるのはそんなに嫌か?不自由なく、過ごせるようにはしたと思っていたが」 不自由はなく、むしろ、居心地はいいと思う。 今日、一日過ごしただけでも贅沢な暮らしだと感じるくらいには。 「嫌ではないけれど、ずっと仕事をしてきたので落ち着かないんです」 正直な気持ちを話すと朗久さんはなるほど、と頷いて言った。 「そんなに働きたいなら、俺の会社で働くか?」 「朗久さんの?」 「そうだな。秘書になればいい」 ずっとマンションにいて、いらないことばかり考えるよりはいいような気がして、朗久さんの提案を二つ返事で受け入れたのだった。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 二日目の夜はそれぞれの部屋で眠った。 また夜に出かけて行ったみたいだったけれど、朝には帰ってきていた。 疲れているのに会いに行くなんて、よっぽど大切な人なんだと思っていた。 「それはいいけど、もう起きてもらわないと遅刻よ」 朗久さんが出社の時間になっても起きてこないので、部屋のドアを開けると、まだ眠っていた。 「朗久さん!」 「う……」 朝に弱いのか、もぞもぞと布団の中に潜ってしまった。 「起きてください」 ゆさゆさと揺さぶると、大きな手が出てきて私の体を捕まえた。 「えっ!?」 何が起きたか、一瞬わからず、気づくと朗久さんの腕の中にいた。 「わかった、わかった。一緒に寝よう」 「ま、待ってください、仕事は」 抵抗しようとすると、抱きすくめられ、頭を撫でられた。 まるで、小動物を愛でるかのように髪と額に口づけをされる。 「や、やめてください!朝なんですからっ!」 自分でも混乱して何を言っているかわからない。 「ん…?あー……。悪い」 枕元にあった眼鏡に手を伸ばし、眼鏡をかけると誰なのかわかったらしく、解放してくれた。 手を離してくれた瞬間、慌ててベッドから出た。 転びそうになりながら、部屋のドアの所まで行くと、朗久さんが苦笑した。 「そこまで警戒しなくてもいいだろう」 誰と間違えていたのか、知らないけれど、その手があまりに優しくて勘違いしそうになる。 「遅刻しますよ」 「ああ。今、用意する」 部屋をでて、くしゃくしゃになった髪を整えた。 鏡の向こうの私の顔は赤く染まっていた。
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