第9話 出社

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第9話 出社

「行くぞ」 「もう用意できたんですか!?」 早すぎると思いながら、バッグを手に玄関に行くと、ゆったりした白のTシャツに黒のショートパンツ、ぼさぼさの髪と眼鏡、手ぶらで黒のサンダルをはいていた。 「仕事に行くんですよね」 確認してみた。 「ああ」 当たり前だろ?という顔で見られた。 私はもちろん、スーツを着ている。 髪をきっちりアップにし、シャツには皺一つない。 いいのかなと思いながら、マンションから出ると運転手さんが待っており、一緒に車に乗った。 「時任社長、今日はいつもより、きちんとされてますね」 「まあな」 きちんと? 思わず、二度見した。 むしろ、運転手さんの方が、スーツを着て、きちんとしている。 こつ、と窓に頭があたる音がしたかと思うと、また眠っていた。 会話もなく、静かな車内が気まずい。 なにか話したほうがいいのか、どうか迷ったけれど、朗久さんにうるさく思われても嫌だったため、何も言わずに窓の外をずっと見ていた。 本社ビルはオフィス街にあり、時任グループのビルは周囲のビルよりも一際高く、窓は青空を映していた。 まさか、こんな大きい会社とはおもわず、あっけにとられていると、腕をつかまれた。 「遅れるぞ」 「そ、そうですね」 中に入ると服装は自由らしく、スーツを着ている人もいるけど、どちらかというと、社員はスーツに準ずる服を着ていた。 朗久さんのようなサンダルにショートパンツ姿の人はいなかった。 オフィス街だから、スーツの人ばかりで朗久さんはかなり目立っていたけれど、本人は顔色一つ変えずに受付前を通り過ぎた。 「社長、おはようございます」 「おはようございます」 社長と呼ばれているから、社長であることは間違いない。 「社長、今日はジャージじゃないんですね」 「お隣の女性はどなたですか?」 「新しい社員ですか?」 女子社員が気軽に話しかけてきた。 「妻だ」 「えー!」 「うそー!」 「ショック―!」 無駄に広い会社のエントランスに声が反響した。 ショックって。 隣にいるのに言われるとなんだか、複雑な心境よね。 エレベーターに乗り、最上階フロアに行くと、私の姿を見つけた重役の人達が大騒ぎした。 重役の人達はジャケットを着ていたけど、ネクタイは誰もつけてなかった。 どちらかというと、朗久さんの服装に近い人が多い。 「社長!?どうして絹山(きぬやま)のお嬢様を連れてきたんですか?」 「秘書にするためだ」 「働かせるつもりかっ!」 結婚式に見かけた顔が何人かいて、会釈すると慌てふためいていた。 「社長が何を言ったか、わかりませんが、奥様が働かなくても大丈夫ですよ!」 「いいえ。私から働かせて頂けないかと、お願いしました」 「こんな奴と働きたいなんて、酔狂な」 「やめておいたほうがいいですよ。あまりのいい加減さに辞める方も大勢いますから」 「まあな」 あっさりと認めた。 「反論したほうがいいぞ」 「そうですよ」 「さー、仕事するかー」 社長室に入っていってしまった。 「本当にすみません。あんな適当な社長ですけど、いいところもあるんです!たぶん」 「どうだか。別れたくなったら、言ってください。いい弁護士を紹介しますから」 散々な言われようだった。 苦笑し、社長室に入ると、そこは子供部屋みたいにごちゃっとしていた。 「えっ!?」 パソコンのディスプレイは五台あり、日本のニュースだけでなく、海外のニュース、市場、そして、自分の仕事をしているようだった。 本やファイルが床に無造作に山積みになり、カップ麺が入った段ボールに毛布、冷蔵庫とミニキッチン、シャワー室まであり、立派な社長室は学生の部屋みたいになっていた。 「好きなとこで仕事すればいい。雑用は外にいた連中に任せてあるから、やりたい仕事があれば、もらえ」 「はあ」 それだけ言うと、黙ってしまった。 キッチンを掃除し、カップを洗い、毛布は今日の帰りにクリーニングにだして、本とファイルはあまり触るとわからなくなるかもししれないので、崩れた山だけを直した。 「お茶どうぞ」 「あ、悪いな」 お茶と一緒におにぎりを置いた。 「これ」 「朗久さん。朝御飯、召し上がらなかったでしょう?」 朝の食事を食べる暇がないようだったので作っておいた。 「久しぶりにコンビニじゃないおにぎりを食べるな」 わずかに見えた目が優しげに私を見ていたので、迷惑ではなかったようだった。 ホッとして、離れようとすると腕をつかまれた。 「ありがとう」 「は、はい」 ぱ、と手を離されたけど、つかまれた感触はなかなか消えず、なぜか胸が苦しく感じた。
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