第8話(1) 愚かな男

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 割れた花瓶を眺めながら、いまだ治らない怒りに震える唇で、僕は言った。 「…父上は、いつ頃お戻りになられるの?」 「旦那様ですか…夕刻前にはお戻りになる予定ですよ。いたっ…」  花瓶の欠片を皺が増えた指で拾いながらマーサが優しく答えてくれた。そして、指を切ってしまったようで、手を引っ込めたマーサを見て僕はハッとした。  「…マーサ、ごめんね」と言って僕もしゃがみ込んで欠片を拾う。「坊っちゃんがそのような事をなさってはいけません!」と怒られてしまったけれど、僕の心はここに在らずで、マーサはやれやれとため息をついて首を横に振りながら何も言わなくなっていた。  僕は小一時間前の出来事を思い出していた。 『結構でございます。では、ご機嫌よう』  人生で初めて地面に膝をつき頭を下げる僕を見下ろしながらそう言ったシャロン嬢。氷よりも冷たい視線に晒されて、僕の心臓は縮み上がった。  シャロン嬢が去って行った後、誰も何も言わずにそのまま少しの時間が経つ。エリックがふらふらとした足取りで「ひとりになりたい…」と言ってその場を後にする後ろ姿を見送ってから、僕もゆっくりと立ち上がった。膝についた土を払う気にもなれず…僕はイーサンとラザーク二人に目もくれずに、何も言わずにその場を退場した。  放心状態で手配した馬車に乗り込んだけれど、20分の道のりは十分に僕を冷静にさせ、そして怒り狂わせた。
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