4 やよい軒とかつや

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女と繋いだその手を、 ポケットから鍵を取り出すために離す。 ドアを開け、先に立って部屋に入り、 そして女を招き入れる。 女は小さく「お邪魔します」と言い、 茶色のショートブーツを脱いで部屋に上がってくる。 部屋の灯りを点け、暖房を入れ、 そして、ソファに掛けるよう女に勧める。 黙ったまま、女は二人掛けソファの入口側に腰を下ろす。 キッチンに立ち、冷たいお茶でいいか問い掛けるも、女は黙ったままだった。 冷たいお茶を入れた二つのコップを持ち、部屋へと戻る。 俺はソファの前のローテーブルの上にコップを置き、 そして、部屋の奥側の床に胡坐をかいて座る。 女に大丈夫?と声を掛けてみる。 女はうん・・・と答える。 小さな声で。 お互いに何となく黙り込んだまま、時は黙々と過ぎていく。 沈黙に耐えかねてテレビでも点けようかと思ったが、それは躊躇われた。 今のこの危うげな均衡状態は、何かの拍子に呆気なく崩れ去ってしまいそうにも思えたから。 正直、この状況に戸惑っていた。 どうしよう?と、軽い恐慌状態にあったと言っても過言ではなかったかもしれない。 女は無言で俯いたまま。 床に座った俺の位置からだと、髪の毛で顔は隠れてその表情はよく見えない。 『やよい軒』で見せた嬉しげな態度、 『かつや』で俺を見つめていた悪戯っぽい微笑、 そんな女の表情が脳裏に浮かぶ。 つい先程まで繋いでいたその手の暖かさや湿り気、 そして、仄かに握り返してきたその手の感触が蘇る。 高円寺駅を出る時は、そんな積もりは全く無かったけれども。 でも、何時かは、と心の何処かで思い続けてもいた。 いつの間にか、そして密やかに。 しかし、どう切り出せばいいのだろう。 そもそも、切り出していいものか。 女が黙り込んでいるのは、単にお腹が苦しいだけなのではないだろうか。 沈黙は相変わらず続く。 沈黙が続くに従って、この部屋の空気の密度は愈々重苦しいものになっていくように感じられた。 沈黙が、そしてその空気の重苦しさが、俺の焦りを募らせる。 女の様子を見遣る。 女は俺がテーブルの上に置いた部屋の鍵を、その右手に取って眺めている。 どうしたの?と尋ねてみる。  ディンプルキーなんだね、と女は答える。 思い切って、切り出してみる。 心の動揺を抑えつつ、平静を装いながら。  そうだよ、防犯性に優れたやつ。  鍵、三つあるんだけど、一つ要る? 返す返す鍵を見ていた女の動きは止まった。 俺の発した言葉が女の中へとじわじわと染み込んでいく、そのように感じられた。
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